狼煙は湯気のごとく

 さら、さら、と硯の上を墨が滑る音がする。箱村は朝から忙しかった。
 この塾唯一の先生である鷺ノ宮の指揮により防衛部隊と奇襲部隊とに分かれての作戦決行を言い渡されてからというもの、必要最低限の食事や睡眠の時以外はずっと呪符作りか、作戦当日の時間ごとの吉兆を占ってばかりだ。
 ただでさえ前線向きではないのに右手を骨折しているとあって、当然のごとく箱村は防衛部隊となり、妖怪たちが攻めてくる時間までにやらなければならないことは山とあった。
 まず塾の守りを固めるため、結界を作るのに必要な呪符を大量につくる必要があった。鷺ノ宮が張った結界はあれど、彼自身がこの場所を離れるのであれば力ある妖怪の手によって結界が破られる可能性も充分にある。効力が低く持続時間も短いとはいえど、塾生として、また塾を託された者として、守りは備えなければならないと全員が考えたからだ。他にも何人か呪符や護符作りに専念するものは多くいたが、箱村はその中でも中核とされる場所を一時的に見えなくするためのものを作っていた。
 そして奇襲部隊の生徒たちのために、様々な効果の呪符の作成を行う。それは例えば姿を隠すものであったり、目くらましとして使えるものであったり、妖怪の能力を制限するものであったりと、どれも効力や持続性は低いが何かと役に立つであろうものだ。実際の授業で習ったものだけでなく書物を漁り見つけたものも描いていく。一人分はかまぼこ板くらいの厚さだ。
 さらには本を片手に簡易的な結界陣の作成の指揮を取り、迎撃する生徒たちを守るためのものをいくつか作った。
 この時点で2日は要しただろうか。疲れは溜まるが休んでいるわけにもいかない。若さに無理をきかせてひたすら机に向かっていたが、ふとした弾みにぷつん、と集中力が切れた。

「あかん。無理や。疲れた。しんどい」

 伸びをしようと腕を伸ばし右腕の痛みに悶えながら教室を見回してみる。
 準備の内容や進行具合はまちまちだが、みな忙しそうにばたばたと走り回っていた。

「……ぼーっとしとる場合やないのんは、分かっとるんやけどなぁ」

 普段使い続けることなどない集中力を立て続けに使い色々と限界が来てしまった身としては、またすぐに作業に取り掛かることなどどう考えても難しそうだった。
 気晴らしに塾内を歩き回ってみようか。
 よっこいせと腰を上げ足を伸ばすとパキパキと関節がなり疲労を伝えてくる。

「さーかっさー箒をぉーっ立ーてないーでー。ハイハイ」

 どこぞで聞いたことのある歌を口ずさみ適当な合いの手を入れながらぶらりと彷徨う。そういえばこの歌はどこで聞いたのだったか。
 とくに当てもなくぶらぶらと歩いていると、騒がしい塾内と変わって美味しそうな匂いが漂ってくる。不思議に思ってその匂いの元を辿ると一つの部屋に行き着いた。

「お邪魔しまーす」
「あれ、箱村くん。どうしたの?」

 小さく声を出しながら引き戸を開けると、ひとつ年上の伊藤優希が声をかけてきた。その声に反応してどうしたの? といいながら中からさらに数名の女子たちが顔を出す。

「ちょっと散歩しとったんすよ。伊藤サンたちは何しとるんですか?」
「みんなで差し入れを作ってたの。鬼切さん直伝のおにぎり、すっごく美味しいんだよ!」

 伊藤が、ね、と後ろに向かって声をかけると、その言葉を受けた彼女はほんのりと顔を赤らめてこくりと頷いた。自分のことだけでなく、実家のことも褒められ嬉しいのだろう。
 引き戸を開けて女子が出て来た時思わず(お? これは? 秘密の花園的な?)と頭の悪いことを考えていた箱村だったが、正解を聞いてそれとなく納得した。それと同時に今日はほとんど何も口にしていなかったのを思い出す。

「あの、話聞いてたら腹減ってきたんで、一個貰うこととかって出来ないっすかね」

 あんま食べてないの思い出したもんで、と付け加えると、視界の端でささっと作られたばかりであろうおにぎりが皿から笹へ、笹から風呂敷へ纏められた。
 そして纏めた本人である鬼切が歩いてくると、「ん」と言葉少なに箱村に向かって包みを差し出す。

「え、こんな量貰ってええの?」
「ん」
「男の子だし、箱村くん一個じゃ足りないでしょ?」

 こくりと頷いてなお包みを差し出す彼女の言葉を補ったなのは近くにいた伊藤だった。申し訳ない気持ちとありがたい気遣いとない交ぜになるが、結局は嬉しいので感謝する。

「ありがとな。これ食べて元気だすわ」

 左手ひとつで風呂敷を受け取ると、それじゃあ、と軽く頭を下げて元の教室へ戻ることにした。
 場所もやっていることも違うけれど、みんな同じように戦う準備をしているのだ。おちおち休んでなどいられない。

「時間ないし、最後までもうひと踏ん張りやな」

 温かい包みをしっかりと持ちながら、空腹を満たしてから作業を再開しようと心に決めた。


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鬼切握ちゃん
→お借りしました。
不都合ありましたらパラレルとして扱ってください。