黒瑪瑙の憂鬱

 まだ日のささない午前3時過ぎ。知り合いのツテで入手した厚手の織物を羽織り寒さをしのぎながら、欠伸を噛み殺しつつ自宅へと帰る姿がひとつ。奇しくも白鷺塾襲撃に間に合わなかった邪鬼一門の次期当主、魄そのひとであった。
 元々大掛かりな攻防戦に対してあまり有効でない能力であるし、なにより寒い中出向くのは苦手であるが故に乗り気では無かった。大内裏から名のある貴族たちは参加するようにとの通達がなければ、妹たちと遊び今頃は温かい布団の中で寝れていたのに。現場に到着することもなく撤退を命じられた身としては不満ばかり出てきてしまう。
 終わってしまったことはどうしようもない。どうせ自分が出向こうと出向かまいと、陰陽師側が勝ったという結果はさほど変わらなかったであろう。
 早く帰って寝てしまおうととぼとぼ歩いていると、背後から聞き慣れた声がした。

「あぁら、邪鬼のとこの息子じゃなあい。なあに? まさか襲撃に間に合わなかったとかぁ?」
「……お久しゅうございますな、絹笠さん」

 東洋風の衣装に身を包んだ女性に一拍遅れて挨拶をする。自身の興味の赴くままに行動する絹笠傘子は、魄にとって苦手な存在であった。

「いやはや、声掛けられるんが遅ぉなりましてな。ついさっき終わったと伝えられたんですわ」
「あら、そうなの。手柄を立てられなくて残念ねぇ。大内裏にも入れない貴族が活躍できるチャンスだったのにぃ」

 くすくすと笑みを絶やさず毒を吐く彼女。遠回しな言い方だが、あからさまに見下しているのが分かる。
 しかし言わせておくだけというのはどうにも性に合わない。
 そこでひとつ、意趣返しをしてやろうと思い立ち声を上げた。

「そういや、絹笠さんは間に合うたんですか?」
「当たり前じゃなあい。アタクシは由緒正しい貴族ですもの」
「へぇ。儂らと同じで、派手な攻防戦では役に立たれへんと思うてましたわ」
「なんですってぇ……?」

 その一言で絹笠の表情が一変した。形勢逆転というところである。
 癇癪持ちのきらいがある彼女は、冷静さを失いとうとう本音をぶちまけはじめた。

「ただ病気にかけるだけしか脳のない妖怪がいきがらないでくださるぅう? アタクシと違って、アナタ達みたいな現場で使えないお飾り貴族なんて必要無いのよお。さっさと没落してしまったらどうかしらあ?」
「はははっ! 冗談キツいですわ、絹笠さん」

 これだけの暴言を吐かれてもなお、魄は笑みを崩さなかった。階級ではいくら絹笠の方が上だとはいえ、誰しもが絶対的に抗えないものを彼は持っているのだ。

「儂に触れることも出来んお人が、そないな口きいてよろしいんですか? ーーああ、そうそう。今ちょうど、いつもの付けてないんですわ」

 二人が話していた距離は、手を伸ばせばすぐに触れられてしまうほど近かった。ぬぅと伸ばされかけた生腕に顔を引きつらせ、絹笠は即座に距離を取り中へ浮かぶ。
 魄にとっては何気ない行動であったが、絹笠にとっては身の危険を感じる行為であった。どんな種族にも適応される、彼ら一門の能力を知っていればこその真っ当な反応である。冷や汗を流しながら浮く彼女は悔しそうに顔を歪めていた。

「覚えてなさいよ……。いつかアナタ達なんて追い出してやるんですからねぇ!」
「そん時はどうぞ、心して来てくださいね」

 生半可なものでは追い出されやしないと言外に伝えつつにこりと笑ながら答えた魄を睨みつけ、絹笠はふわりと去っていった。見届けるやため息をつき、織物を手繰り寄せて魄は再び歩き出す。

「三十路女の相手はキッツイわ」

 ああ寒い寒い、と息を吐きながら、冷たい闇の街を愛しい我が家へ向って歩いていくのだった。


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絹笠傘子さん
→お借りしました。
不都合ありましたらパラレルとして扱ってください。