不穏なさざめき

 ばたばた、ぱたぱた。がらり、ばたん。
 ここ最近のNECTAR遺伝子学研究所は常にこんな有様だ。誰かが入っては誰かが出ていき、扉を開けたり閉めたり。人の行き交う足音が途絶えることはない。
 話し声は密やかに聞こえない程度に。それがさらにソフィーヤの苛立ちを大きくしていた。
 この研究所の中でも世界的にかなりの権力を持つ彼女には、もうすぐ大きな学会での研究発表が待ち構えていた。彼女は亜人研究に大して生涯を捧げるつもりで没頭している。それはうら若き少女の頃からそうであったように。
 コーヒーを一口含み大きな四角いモニターと再びにらめっこを始める。その目はまるで親の敵を今まさに討ち取らんとするようなものであった。
 亜人の子供の教育機関である西京学園に教師として勤めている分、ソフィーヤの下には常に最新の亜人のデータが送られてくる。それは彼ら彼女らの体調管理や精神面での保護のためであり、そして彼女が教師として働くにあたって条件として掲示したものだからだ。研究機関に篭ったままでは手に入らないデータを駆使することによって、思春期の少年少女たちの能力にどれほどの振れ幅が起こるのか、またどのような感情の時に一番能力が強く出るのかなどの研究データをまとめることができ、それだけでも十分学会で発表するには価値が有る。
 しかしソフィーヤが求めているものは学会での名誉などという小さなもののためではない。もっと根本的な、人類にとって革命的なもの。――人間から亜人への変体である。
 そのためにはもっとより多くの、そして強い力を持った亜人の研究資料が必要なのだ。それも定期的に、膨大なもの。
 アテはあった。それもとても身近に。ひとつ声をかけるだけで入手できるものだった。否、今まで入手できていたものだった。
 がらり、と何度目かの入室音にちらりと視線をやると、目当ての男が目の下にひどい隈を乗せたままふらふらと歩いてきた。いくつかのデスクを挟んだ向かい側に座る彼のもとにヒールをかつかつと響かせてやや威圧的に向かっていく。

「理逸くん、少しいいかしら」
「あ?」

 常に寝不足気味であるらしい彼はここ最近さらにひどい隈を作ってこの研究室へ通っている。しかし戻る時間はせいぜい一時間か二時間程度のもので、忘れていたことを最低限やるだけやって帰る、というようなもの。
 ソフィーヤは前にも話したと思うけど、とひとつ言葉を置いて話し始める。

「あなたの姉の心緒さんの研究データ、定期的に渡して欲しいって言ったわよね? もうひと月近く私の手元に届いていないようだけれど、これはどういうことかしら?」
「俺だって忙しいんだよ。お前にばっか構ってられない」
「そう。いいのよ、あなたたちがどこで何をしていようが、わたしの研究には一切関係がない。亜人のことでないのなら、興味はないわ」

 でもね、といちど話を区切ると、ソフィーヤは苛立ちを隠しもせずに言い放った。

「これはビジネスなの。お遊びじゃないのよ。あなたがお姉さんのことをどれだけ思っているかなんて知ったこっちゃない。わたしの研究に手を貸して研究費を得るか、それともわたしと手を切って一生孤独に無駄な研究をして過ごすか。今ここで選びなさいって言ってるの」

 ここ最近のNECTARは何かが変だ。時折妙なうわさ話まで流れている。ソフィーヤはそんなことに関心はない。けれどこのまま流されて自分の研究を未完成のまま発表することだけは、彼女の研究者としてのプライドが許さなかった。
 契約であり取引であり、それはつまりビジネスである。それを前面に押し出した上で、彼女は今すぐにでも研究データをよこせと若き同僚である伝禰理逸に迫っているのだ。
 相手方も近頃忙しい用事とやらで鬱憤でも溜まっているのか、はたまた最愛の姉の名を出されて抵抗らしい抵抗もままならないからなのか、大きく舌打ちをすると引き出しからファイルを取り出して机の上に叩きつけた。

「姉ちゃんのためだ。お前の為じゃない。このデータの分はお前から研究費を取るからな」
「もちろんよ。わたしは不義理じゃないもの。きちんと仕事さえしてくれれば文句はないわ」

 一切笑うことなくにらみ合いを数秒続けたところで、他の研究員から伝禰を呼ぶ声がした。小さく悪態を吐き捨てると大股で扉の向こうへ消えていく。

「今はまだ許容範囲内よ。これ以上騒ぐと、どうなっても知らないけれどね」

 ぼそりと呟かれた彼女の言葉を知るのは、分厚いファイルだけだった。


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伝禰理逸くん
→お借りしました。
不都合ありましたらパラレルとして扱ってください。