12月15日、ノーティラス号にて



「いや待て。もう一度説明しろ、エズメ・N・アンバー」
「だから?二週間くらい?潜水艦?で?、調査に行って?くる?んだよ??」
「調査って、コレのか?」

 ぱしゃり。足元の水を蹴って音を出すと、正解、と目の前の幼馴染が笑う。
 先月の半ばからだろうか。突如街中に水が溢れ出し、毎日少しずつ水嵩が増している。原因は不明、取り除くことも容易ではなく、被害は世界各地で起こっている模様。ジャックとエズメが所属するBC財団は早くも調査に乗り出していたようだが、現状を見る限り成果は芳しくないようだ。おそらくそれで末端の職員にまで回ってきたのだろう。
 まあでも、調査くらいなら大丈夫だろう。幼馴染であることに加え、前世の妻に似ていることからエズメをよくよく気にかけてしまうが、彼が非常に優秀な魔法使いであり、利発であることをジャックはよく知っている。

「そうか。くれぐれも気を付けるんだぞ。君は少しばかりでなくぼんやりしている所があるからな」
「うん?。ありがとう?」

 そうやって言葉を交わし、見送ったのが11月のこと。


「――本被害による初の「死亡者」に関する情報を発表しました」

 深夜、23時。たまたま流していたラジオから聞こえてきたその言葉に、設計図を描く手を止める。計算式に沿って形の違う定規を使い正確に引いていた線も、残すところあと一つ二つの部品で終わる、という所だった。ペンを置きラジオに耳を傾ける。
 硬直、蒼色、変色、溺死。流れた情報はどれも不穏な響きを持っていて、膝の辺りまで迫ってきている水と何ら関係がないとは思えなかった。
 つい先月に見送った幼馴染の顔がよぎる。財団側が物々しい様子で今回の調査準備を進めているのは知っていたが、これはひょっとすると、去年よりもっと大きな何かが起きているのではないか――? 変死体(と現在は仮定する。ただの死体とも思えないし、そもそも報道通り明確に死んでいるのかは定かではない)の情報を流したのは十中八九財団だ。そしてその情報を流さざるを得ない状況にある、と考えるのが今は最も正しいだろう。
 他に何人もの財団員が、あの大きな潜水艇に乗船している。確率的には非常に低い、が、エズメ・N・アンバーがその変死体にならないとも限らない。能力が優れていたとしても、財団に所属している限り避けられない事はある。
 なにも心配することはない。そんなことは分かっている。彼らは志願して乗り込むのだとはいえ、認められた優秀な人材だ。ましてやBC財団に所属している以上危険があるのは百も承知だろう。去年の天照での事件に参加した財団員も乗船していると聞く。
 何も心配はない、何も。……そう思いながら、ジャックは机の上から必要最低限の工具を箱に詰め、二週間と少しの間分の荷造りをし、じゃぶじゃぶと水音を荒く立てながら、関係者のみに知らされている港へと足を運ぶのであった。
 簡易的なメディカルチェックと、詳しい乗船における諸注意、任務においての説明、現状判明していることなど様々な説明を受けた後、数日は船の中でゆっくりと過ごしていた。船内を改造したり個室の壁をぶち抜いたりなど波乱はあったものの、かねがね平和であった。
 出航の日が来るまでは。
 その日は乗り込んだ財団員の一人、ジーナ・スキータが数名の財団員を連れて買い出しに出ていた。大半の財団員はその様子を見て見ぬふりをしながら、Mr.Dから出航に関しての説明と今現在把握している事態の説明を受ける。その、最中だった。
 地震のような震動。
 通信。断絶。最後の乗船。
 Mr.Dの離脱。調査。通信断絶。
 再び開かれるハッチ。Dr.Aの搭乗――。
 誰に聞こえるでもなく、ジャックは舌打ちをした。揺れ動く船内では満足に身動きも取れない。しかし誰かがやらなければ、今この船は出航する前に沈没する。
 それだけは避けなければならない。世界中で対処が見出されていないこの異常事態に対抗出来るのは、ブリテン発祥のBC財団しかないのだから。

「蒸気機関が分かる者はいますか? 今すぐドーバー港を離脱します」
「ああクソッ」

 確かにそうだ。その通りだ。離脱しなければ海の藻屑になる。
 機関士の呼び戻しは他の人物に任せて、絶え間ない揺れの中ジャックはあちらこちらに体をぶつけながらも機関室の奥へ奥へと進んで行く。レバーを上げバルブを捻り、出力計を調節しながら次の蒸気管へ。震動は止む気配がない。それでもやり遂げなければならない。
 そうして出航に十分な圧力を確保したノーティラス号は先ほどの比にならないほどの揺れを持って、急速に、全力で、前進を開始した。
 備品が落ち、割れ、散らばる音がそこかしこで聞こえてくる。ジャックは近くの蒸気管に強かに頭をぶつけ、他に手伝いに来ていた財団員の何人かも怪我を負ったようだが、幸い任務に支障が出るほどのものは無い。転がった帽子を拾い打ち付けた部分を擦りながら、Dr.Aの言葉を背に受けつつ自室(とはもはや呼べた代物ではないが)に戻ろうと足を動かした。
 嫌な予感はしていた。それは世界中で浸水被害が出始めた頃だったかもしれないし、深夜、あのラジオで情報を聞いて乗船を決めた時からだったかもしれない。どちらにせよ「やっぱりロクなことにならねえ」と悪態を吐きたくなるくらいには酷い出航で、それよりももっと悲惨な状況がこの先待ち構えているのだった。

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エズメ・N・アンバーDr.Ark
 →お借りしました。