宵の口に目隠しして

 茜色から紫紺へと移り変わっていく空が冷えた空気を運んでくる。まだ春になりきらぬ時節の夜は妙に冷たい空気が足をなぞって行く。
 大きな屋敷の庭先に佇む石灯篭に火を灯して、その元となる蝋燭でほんのりと暖を取る。庭師として荒神家へと来た縁には、この本邸を美しく保つことが一つの役割であった。それは昼夜を問わず、そして荒神がどんな事態にあったとしていてもだ。
 灯し終わって役目を終えた蝋燭を吹き消すと、道具を片付けようと倉庫へ引き返す。ここ数日の間に行われている特高によるガサ入れのために尽力している弟のもとへ向かうために、早く終わらせなければと思いながら。
 他の兄弟たちに見つかる前に彼のもとへと急ぐ。同じ兄弟の中であからさまな優劣を示しているわけではないが、元々が肉親だっただけに妙な動きをしていると思われるのが嫌だった。そうでなくても彼は自分を贔屓しているのだ。面倒なことにはしたくない。なにより、この家へ来てしまった彼のためにも。
 なるべく静かな足取りで部屋へと向かう。そっと襖を開いて中を覗いてみると、部屋の主はぼんやりと天井の隅を眺めていた。

「……切」

 かすかな声で名前を呼ぶ。聞こえるか聞こえないかといったところだったが、どうやら彼には聞こえたようで。兄貴、と小さく呟くと色白の弟は顔を縁へと向けた。

「どうしたの。珍しいじゃん、俺の部屋に来るなんて」

 うっすらと笑みを浮かべる、その目元にはっきりとうかぶ隈がどうにも痛々しかった。
 切の笑顔に引き寄せられるままに部屋へと入り襖を後ろ手に閉める。数歩歩いて彼のそばまで行きしゃがむと、弟はなおさらに嬉しそうに目を細めた。

「辛くはないか。もう、一週間近くだ」

 荒神邸に存在する全ての兄弟たち、そのうちの何人かが抱えるどす黒いものを特高の目から遠ざけるために能力を使い続けている。それが一週間近く、部屋の数や広さは両手両足を使っても足りないほどのものだ、辛くないわけがない。その間眠ることが許されないことがどれほどヒトの神経を削り取っていくことか。体験することは叶わなくとも想像することくらいは容易い。
 縁のその言葉を受けてもなお笑う切は首を横にふり、否定する。

「べつに。慣れてるしさ」

 それもそうだろう、彼はほぼ年中この荒神邸の主要部分を鼠たちから守っているのだから。それに亜人としての能力はずば抜けて高い。
 しかしそれにしても普段より随分と能力の使用範囲が大きかったと縁は記憶している。荒神はクリーンなイメージを民衆に与え政権を手中にするため、今回の特高ガサ入れにおいて少しでも黒いものに蓋をしている。目の前の、ひとりの青年の能力を使って。

「でも、平気じゃないんだろう」
「うーん……。まあまあ?」

 思わず眉をしかめた。切の態度にではなく、その返答の真意に対して。
 どうして自身のことは誤魔化すのだろう。自分には誤魔化さずに言えといつも迫って来るくせに。
 愛おしいその頭にてのひらを乗せて、同じ色の瞳を覗き込む。

「とにかく、兄上たちに早く終わらせられないか交渉してみる。無茶だけはするなよ」

 するり。黒髪をてのひらの上に滑らせて立ち上がろうとすると、ぐいと羽織りを引っ張られる感覚に中腰のまま立ち止まる。

「いいよ、そんなの」

 先程までの笑顔はどこへいったのか、すこしむっとした顔で縁を見上げている。

「兄貴のためだと思えば、こんなのどうってことない。だからいいよ」
「だけど、これ以上お前にばかり負担をかけるのは」
「だったら、ごほうびちょうだい」

 ぴくり、と指が震える。縁は弟から持ちかけられるこの手の頼みごとが苦手だ。何を考えているのかわからず無意識に身体が強張ってしまう。
 他愛ない頼みごとならいい。それならば出来る限りの範囲で叶えてやれる。どうかそうであってほしいと願いながら、口を開いた。

「ごほうび……?」

 切は目をそらさない。

「キスして」

 ぐらりと視界が歪んだ気がした。それは縁にとってこれ以上ないくらいの言葉の毒だった。甘やかな言葉に巧みに操られ、罪の果実を食べてしまいそうになるくらいに。
 さらに追い打ちは続く。

「ねえ、兄貴。頼むよ」

 ぽきりと何かが折れてしまいそうだ。頼みごとには、それこそ実の弟である切からの願いには昔から弱かった。それこそ身の内に燻る思いに言葉がついてしまう前から。
 きっと震えているのだろう自身の手を見ないようにしながら先ほどと同じ位置に座り直す。利き手で彼の顔にかかる髪をゆっくりと払い除けて頬にちいさなくちづけを落とした。

「そっちじゃなくて、こっち」

 ぐいと顔を無理やり動かされたかと思うと、頬よりもやわらかい部分に唇が押し当てられる。角度を変えて何度も食まれるうちに、それが切の唇であると理解した。
 しかし気付いたところでもう遅く、次第にくちづけは深さを増していく。舌を絡ませ唾液を交え、縁は目を固く瞑ることによって弟の顔を見ないようにすることが精一杯だった。
 ふたりを引き合わせた糸が途切れる頃には息も絶え絶えで、切の細腕に縋り付くような格好になっていた。ひと握り湧き上がる多幸感と大部分を占める罪悪感や嫌悪感に意識を飛ばしかけた時、切の声が久しぶりに聞こえたような錯覚を起こした。

「……なんで抵抗しなかったの」

 ぼんやりと外からの灯りで微かに明るい暗闇の中、朱のさした頬と濡れたくちびるをそのままに掛けられた問いに、答えなければ、と他人の熱を帯びたくちびるを動かす。

「お前が、お願いするから」
「お願いしたら、誰にでもするの」
「それは……。お前が、荒神で弟だから……」
「本当に?」

 まるで尋問だ。前を向いていた視線はだんだんと畳へ落ちていく。兄の劣情を暴いて一体何がしたいのだ。熱で浮かされた頭は正常に働いてくれない。ひたすら、ここから逃げ出したい思いで一杯だ。

「ねえ、本当にそれだけなの」

 切の視線がつむじに当たるのを感じる。いてもたってもいられない気持ちだ。どうかそんな目を向けないで欲しい。さらけ出させないで欲しい。どうか自分に、お前を不幸にさせないで欲しい。
 身勝手な思いばかりが雨のようにしとどに降り続ける。

「それ以外の理由なんてない」

 自分に言い聞かせるためでもあった。その言葉を喉の奥から絞り出した。罪悪感、嫌悪感、自己否定、その他もろもろの思いを乗せて吐き出した言葉が、愛おしい人を傷つけたことも知らぬままに縁は俯いたまま入口へと足を向けた。
 ぱたりと小さく音を立てて襖が閉まると、切は詰めていた息をゆっくりと吐き出す。

「ばか兄貴」

 爪を立てられた畳が鈍い音を立てた。


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