灰色の愛猫を追いかけて、漆黒の彼女と出会う。




 鬱蒼と生い茂る木立の中を少女は進む。せっかくの赤と白のドレスを汚してしまわないように、破いてしまわないように枝葉を避けながらのため、その歩みは普段よりもいっそうゆったりとしたものだった。――ああ、こんなことでは間に合わないかもしれない。少女はその歩みとは正反対に心中ではひどく焦っていた。もうすぐ友人の姉の婚礼式がはじまってしまう。
 幼き日のマリアは、小さなその村で三本の指に入るほどの裕福な家の一人娘であった。活発で優しく、気立てのよいマリアは両親からも村人からもとても愛されていた。彼女の周りには自然と人ができ、それはまるでたくさんの幸せを纏っているようで。そんなマリアに幼少から買い与えられたのが灰色の猫のトニーであった。気まぐれで凛としたその猫をマリアはいつも可愛がっていたのである。
 当時猫を飼っている家庭は多くは無かった。世の飼い猫の大半は貴族の象徴とされていたからだ。そんな中裕福な家庭からとはいえどようやっと一般市民の目にも掛かることの出来るようになった猫を、人々は物珍しさとその愛らしさに一目みたいと、猫を抱きかかえている人に自然と寄っていくような時代である。友人の姉の婚礼に招待されたとき、そこに一言「トニーをぜひ連れてきて欲しい」と添えられていたとしても何の不思議もなかった。新しい門出を迎える幸せな夫婦にと、両親もマリアも喜んでトニーと共に出席するつもりだったのである。
 両親の支度が済み、マリアも身なりを整え、さあ婚礼式に行かんとしてふとトニーの姿を探してみると、屋敷の中のどこにも見当たらない。家族総出で探しても見つからず、彼女の両親は仕方なく式場へ向かおうとした。
 しかし、トニーが普段からよく家の裏山近くにいたことを思い出したマリアは、両親にひとつの提案と約束をした。トニーは裏山に入っていってしまったのかもしれない。草木が密集した裏山では自分が一番動きやすい。その上で、トニーを探しに彼女が裏山へ行くこと、式が終わるまでに必ず行くこと。トニーがたとえ見つからなかったとしても、必ず帰ってくることを。
 無断で式に遅れるわけにもいかず、両親はそれならばと先に式場へ向かうことにした。くれぐれも深くまでは踏み入らないことを何度も何度も言い聞かせて。可愛い一人娘を普段からあまり立ち入らない裏山へと向かわせるのは不安で、マリアが裏山へと入り姿が見えなくなるまで、彼女の両親は入り口で見守っていた。

(トニー……。一体どこへ行ってしまったのかしら……?)

 最初こそ勇んで山の中へと入っていったが、普段見えない所にまで足を踏み入れ、草木を掻き分け、猫の姿も声も聞こえないとなると、マリアはだんだんと不安に駆られていった。本当にこっちであっているのか。本当は行き違いになっていただけなのではないか。もうトニーは屋敷に戻っていて、ただただ自分のしている行動は無駄なのではないか。そうであって欲しい、という思いと、見つけて不安を取り除きたい、という気持ちと。ぐるぐると回り続けるその思いを振り払うように、猫の名前を呼びながらひたすらに前へと進み続けた。
 ――にゃおん。聞こえた声に弾かれたように振り向く。
 灰色の艶のある毛並み、アイスブルーの大きな目をしたその声の主は、間違いなくマリアの探していたトニーであった。彼女の視線のその先に、トニーはしゃんと背筋を伸ばして座っていたのである。

「トニー! よかった、こんな所にいたのね。さあ、帰りましょう。もう式が始まってしまうわ」

 さあおいで、と声を掛けながら近づくと、にゃおん、ともう一鳴きしトニーはすっくと四足で立ち上がった。そのままマリアの方へと近づいてくるかと思えばくるりと反対の方向へと歩き出していく。

「トニー……?」

 つられるがままにマリアもトニーの後を歩いていく。振り向く様子も立ち止まる様子も無いまま前を行く愛猫に不安を感じたマリアが駆け出すと、それに合わせてトニーも走り出す。歩きに変えると走るのを止め普段通りに歩き出す。一度立ち止まってもみたけれど、トニーは歩みを止めることはなかったものの非常にゆっくりとした足取りで進んでいった。
 もうこれは大人しく付いていくしかない。きっとトニーは何か見せたいものがあって歩いているんだと思い、一人と一匹は暫くの間森の中を歩き続けた。
 やがてどれほど進んだ先だったか。ふいに今まで歩いていたトニーが駆け出し、あわててマリアも追いかけると、唐突に開けた視界に目を細めた。
 さっぱりと晴れた青空。なだらかな丘陵に立ち並ぶ白亜の建物たち。マリアが恐る恐る踏み出したその道には赤いレンガが敷かれていた。それはそれは美しい、白い街。
 どこからか吹く風は花の甘い香りを運び、周囲の木々を揺らしていく。こんなにも美しい街であるにも関わらず人の姿はまったく見当たらない。かつて多くの人が暮らしていた形跡はあるのに、人の気配が全くしないこの街はとても寂しいという印象をマリアに与えた。遥か向こうにある大きな時計台の針だけがゆっくりと動いている。
 やがてもう一度流れた風が頬をくすぐると、マリアはようやっと愛猫の行方を思い出した。白い街に見とれている間に時間が経ってしまったらしい。追いかけていた彼の姿はどこにも見当たらなかった。

(でも、きっとここのどこかにいるのよね……?)

 不安になりながらも見失ったのがこの街の中でだというのなら、まだ希望はあるとマリアは赤いレンガ道へと足を踏み出した。
 ぐるりと大きな噴水を囲むように敷かれたレンガはやがて立ち並ぶ白亜の中へと続いていく。細い路地を見つけては覗きながら、ぐねぐねと曲がりくねっている道を進んでは立ち止まり、その足取りは森の中を歩いていた時よりもうんと慎重になっていた。静謐な空気に当てられたのかもしれない。足音一つ、呼吸一つ、衣擦れの音一つ立てることすら戸惑われた。
 そしてゆっくりと進んでいると、やがてひとつの建物の前で思わず足を止めた。

「きれい……」

 ウィンドウディスプレイに並ぶのは、色とりどりの宝石たち。その宝石たちをより一層輝かせるために細工された金や銀のチェーンや指輪やピアス。透けるほど透明なものもあれば深い味わいをうむもの、見る角度や光の強弱でいくつもの色に輝くものと様々だが、その装飾類はマリアが今まで見てきた何よりもうつくしいものばかりだった。
 思わずウィンドウに手をつきうっとりと眺める。トニーの行方など忘れてしまったかのように見入っていると、こんにちは、とふいに横から声をかけられた。

「お気に召したものはあったかしら?」
「あ……、ええと」

 黒い肩出しドレスと脇までを覆う長い手袋。艶やかなツインテールの黒髪のマリアとそう年が変わらなそうな少女がその場に立っていた。
 さっきまでの道のりから人がいるだなんて思いもしなかったため掛けられた声に驚いたが、こんな大きな街なんだもの、と考えを改める。
 視線をさまよわせるマリアにくすりと笑みを向けて、目の前の少女はまた言葉をかける。

「私、この店の者なの。何か気に入ったものがあれば譲るわ」
「えっと、ごめんなさい。きれいだったから見とれてしまって……。そうだ。ねえ、猫を見なかった? 私、灰色の猫を探しているの」
「猫? さあ……」

 ようやっと人に会えた喜びからトニーの行方を聞いてみるものの、反応は良くないものだった。ほんの少し歩いただけでもかなり広いだろうこの街のことだ。それも当然といえば当然かも知れない。
 そう、とあからさまな落胆を声色に乗せて呟く。そのマリアの姿をみて考えるようなそぶりを見せると、少女はそっとマリアの手を取った。

「とりあえず中へ入って。少しお話してみたいし、ひょっとしたら協力できるかもしれないから」
「本当!?」
「ええ。本当」

 さあ中へどうぞ、と扉を開けた少女に続いて、カウベルが鳴るそのドアの向こうへとマリアは足を踏み入れた。


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2015/1/6 後半大幅修正