要件を終え、クォルツが家を出るのと同じ時にレティも一旦マリアの苅宿を後にする。昼間一度家に戻って夕飯の準備を終えていたレティは、自身の家で温めたシチューをマリアに渡し、その後クォルツと二人で食事をとることにした。

「いいのかい? 最後の夜なのに、彼女と一緒ではなくて」
「ええ。久し振りに貴方とゆっくり話したいことがあったのよ」

 シチューの香りが部屋に広がる。いつの間にか農耕をする住人が住みはじめ、彼や彼女たちの為に少し手助けをしたこともあってか、数週間に一度、朝になればほぼ必ずと言っていいほど玄関前に野菜が置いてあるのだ。その他この街と外の時間を見ることのできるクォルツが調達してくる食材や調味料で食事は賄われている。
 と言っても、食事をする理由がほとんど趣向のために変わってしまっているため、レティやクォルツの普段の食事量はうんと少ない。なにせこの街はあらゆる世界から切り離されているだけでなく、どうあっても死ねない場所なのだから。
 首をくくって意識を飛ばしても、高い場所から落ちたとしても、一瞬の痛みは訪れるが、それだけだ。人生から解放されたいというような悩みや不安のある人々が訪れる、決して死ねないまるで監獄のような白い街。それがこの場所の本当の正体だった。
 死を望む人々が死が許されない場所だと気付いたとき、彼と彼女は寄り添って言うのだ。「その代わりとして、貴方を否定するものは何もないのだ」と。
 人に、運命に、あるいは己の存在に疲れた人々は孤独を求める。だからこの街には活気なんてものは無いし、滅多なことでは会話をすることも無い。それでいいと考えている。レティも、クォルツも。

「あの子……、マリア、悲しんでいたわ。私達と会えなくなることも、街に住む人々が帰れないことも。……やっぱり、彼女の愛猫がこの街に来たと思われる理由を、話す事は出来ないわ」
「そうだね。最後くらい会わせてあげたいけれど、本当は探し出す事すらしない方がいいのかもしれない」
「ええ。“ルール違反”ですもの」

 訪れたものは何であれ――それが人であれ動物であれ物品であれ、助けが必要ではないとするものには干渉しない。そのようなルールが、正確には分からなくとももう何年、年十年と続けられている。それはこの街の静寂を守るためのものであり、悪戯に心を狂わさないためのものだ。  レティもクォルツも、なぜその猫がこの街に来たのかを何とはなしに分かっている。だから本当は、マリアに会ったあの時にあきらめろと、そう言うのがルールであったし、互いによかったのだろうと思う。けれど着ていた綺麗な洋服を汚し、所々ほつれさせてまで森の中をさまよい歩いてきた少女にすげなくすることは、レティにはどうしてもできなかった。常に落ち着いて振る舞っているように見えたとしても、それは彼女がそう育てられたからだ。本当の彼女はどこか不器用で、お人好しで、人が好きなのである。それを知っているからこそ、クォルツはマリアだけでなくレティの願いを、それが“ルール違反”であっても受け入れようとしたのだ。

「レティ。君が悔やむことは何もないさ。約束しただろう? 僕たちの不安も、悲しみも寂しさも苦しみも、全てこの街のために使って生きていこうって」
「……そうね。貴方がこうして居てくれるから、私も私を保っていられる」
「もっと頼ってくれたっていい。君の為に僕は生きてきて、君の為に生きようと思ったんだから」
「ふふっ。貴方だけよ、こうやって私を甘やかすの」
「当然じゃないか。君を愛しているからね」

 婚約者としてであった二人は、互いに相手を愛しい人だと感じた。それは浅く甘やかな故意ではなく、無条件に信頼できる人物としてだ。だからこそ二人は手を組み縁者としての枠組みを取り払って、この白い街へとたどり着いたのだ。
 ここで築き上げたルールも、生活も、無為なものだと思ったことはない。そう思い迷ったことだって、結果として丸く収まったのだ。だからきっとマリアのことについても、何かしらの意味は残る。クォルツはそう信じている。
 食事を終え、クォルツを見送る。夜道に気を付けて。そんな意味をなさない定型文を口にした。

「今からトニーを探しに行くのでしょう?」
「ああ。と言っても、塔までの道程で気を付けてみるだけだけれどね」
「もしトニーが見つかったら、暖かな寝床を用意してあげて。……明日もしマリアの見送りには来なかったとしても、この街の住人になるのだから」
「そうするよ。君も、あまり思い悩むことなく休むといい」

 見つかってほしいと思う気持ちと、姿を見せないでほしいと思う心が交差する。マリアを安心させたい。けれど帰ると言った彼女の心に波風を立たせたくない。どちらも人を思いやっての心なのに、どちらか一つにすることもできないのはたまらなく苦しかった。
 せめて明日旅立つ彼女のために何かしてやりたい。そう思いいたった少女は、クォルツの見送りを終えると奥の工房へと姿を消した。