「……マリア、貴女は一人で行きなさい」 「そんな、トニーはどうするの? トニーも帰りたいからここに来たんじゃないの?」
「いつだったか話したわよね、この街に来る人達のこと。トニーはきっと、貴女に最後のお別れを言いに来たのよ」

 彼女と話した内容のほとんどをマリアは覚えている。他愛のない話でもなんでも。だから彼女の言わんとしていることはすぐにわかった。トニーはマリアと同じようにこの街に迷い込んだのではない。トニーは自ら望んで、この街にやってきて――そしてマリアを案内したのだ。
 スカートの裾が汚れるのも構わずに膝をついて、マリアはじっと愛猫の瞳を見つめる。

「ここが、トニーの新しいお家なの?」

 猫は堪えない。ただじっと丸い瞳をマリアに向けている。彼女はそれを肯定と取り、「そう……」とすこしだけ悲しそうに目を伏せた。しかしすぐに顔を上げると、哀しそうな雰囲気はあるものの、どこかさっぱりとした面持ちで「よかった」と呟いた。

「そうだわ。ビル、本当にありがとう。こんな素敵な靴だけじゃなくて、最後にトニーに会わせてくれて。わたし、何も知らずにトニーを残したまま帰るのが不安だったの」

 ビルは無言で首を横に振りながら、だんだんと首元のマフラーに顔をうずめていく。隠れきれない頬には赤みがさしていて、どうやら照れているようなのが見て取れた。
 その姿を微笑ましく思いながら、マリアはその横にいる二人に体を向ける。

「クォルツさんとレティも。特にレティには本当に、何から何までお世話になっちゃった。クォルツさんがいなかったらわたしには帰り方も、帰り道も分からなかったし」

 両手を胸の前で組んで、祈るように瞼を閉じる。笑顔を絶やすことはせず、マリアは続ける。

「アルノスさんのコートのおかげで寒さを感じずに済みそうだし、オルフォースさんの言葉は……ちょっとショックだったけど、でもそういう考え方もあったんだなあって、思えた」

 目を開ける。今は遠くに見える白い質素な時計塔を見る。

「ここでの一週間は一日にも満たないってクォルツさんに教えてもらったわ。それでもわたしにとって忘れられない、全部がぜんぶ素敵な時間だった」

 最後に、愛猫に視線を向ける。トニーは相変わらずじっとマリアを見つめている。

「ありがとう、トニー。あなたと一緒にいられた時間は何よりのたからものよ。最後にこんな素敵なプレゼントをくれる子なんて初めて聞いたくらい!」

 だからきっとよ、とマリアは囁く。

「きっとここで、幸せに過ごして。わたしの最後のお願い」

 トニーは短く、にゃあと鳴いた。

「それじゃあそろそろ行くね。本当にたくさん、ありがとうございました」
「――マリア、少しだけいいかしら」

 深々とお辞儀をして森の中へ進もうとすると、それまでじっと成り行きを見ていたレティが声を掛ける。当たり前のようにマリアは振り返って、なあに、とレティに応えた。

「私からも、貴女に渡したいものがあるの」

 そういうと、レティはマリアのすぐ近くにやってきてそっとその右手を取った。

「どうか受け取って」

 右手に何か小さなものを置いて、レティは手を離す。そこには綺麗な赤い宝石がはめ込まれた、シンプルな装飾の指輪があった。

「これ……」
「ガーネットの指輪よ。私も、貴女と知り合えてよかった。……もし私を友人のように思ってくれるなら、何も言わずに受け取ってほしい。これはその証みたいなものだから」

 目の前の、いつも自分より大人びて見えた彼女がきゅっと両手を握りしめたのが見えた。緊張しているのだろうか。マリアにはいま確かに、レティが一人の普通の少女のように思えた。
 レティの言葉を受けて、マリアは黙ったまま首を縦に振る。思い返せば、レティはマリアの前ではいつだって一人の少女だった。姉のように振る舞い、年上とも対等であるかのように振る舞い、誰に対しても社交的な態度を崩さなかったレティが、紅茶を味わいお菓子を手にして語らいあう、マリアの前でだけ姿を現す少女。
 二人は明確な言葉として口には出さなかったけれど、確かに友人同士だった。
 だからマリアはそのまま指輪を受け取った。本当はこんな高価なものはもらえないと言いたかったが、その言葉をぐっと飲み込む。友人の証として、最後の別れの手土産として渡された指輪を、大切に握り込む。

「大切にするわ。一生、きっとおばあちゃんになっても」

 けれどどうしてもそれだけは伝えたくて。その言葉にレティは安心したような笑顔を見せる。それにつられてマリアも笑顔を返した。
 それじゃあ、と改めて踵を返す。その背中にまたしてもレティが声を掛けた。

「マリア、そのままでいいから聞いて頂戴。その森へ入ったら、見知った道へ出るか誰かに会うまで振り返らないで。振り返ってしまったら、貴女はまたこの街に戻ってきてしまう」
 最後の忠告にこくりと頷く。別れの挨拶はもう十分に済ませた。これ以上言葉を交わせば、いまよりももっと離れがたくなる。だからマリアは振り返らない。振り返らずに、前へ踏み出す。

「またいつか会えたなら。そんな奇跡が起こったら、またお茶を楽しみましょうね」
「――ええ」

 暖かさを振り切るように、マリアは駆け出し、いよいよ森の中へと足を踏み入れた。新しいコートに身を包み、新しい靴で土草を踏みしめ、綺麗な指輪を握りしめながら獣道を進む。言われた通り、振り返らなかった。
 振り返りたい気持ちを歯を食いしばりながら、ただ足を前に進めることだけに集中する。彼女に贈られた品物が、暖かくその背中を押していた。