一歩足を進めるたびに、ざくざくと音が鳴る。祖母の話では獣道があったようだが、今や人が入らなくなった森の中は勝手気ままに草木や枝葉が伸びていて、道らしい道を見つけることの方が困難なものだった。この山に出入りしていたのは最近では祖父だけであったし、その祖父もいなくなったのでますます植物は自由になれるというわけだ。
 落とさないようにネックレスを再び上着のポケットに入れて、かろうじて地面が見えている場所を頼りに奥へ進んでいく。しかし障害が多く、実際には半歩にも満たない進み具合であった。
 時折鳥の羽根が不気味な虫の声が響いてきて、その度に立ち止まり周囲の安全を確認する。大きな肉食の獣が出てきたことのない森とはいえ用心するに越したことはない。
 やがてどれくらい歩いたのだろうか。随分歩いたような疲労感はあるけれど、そこまで歩いていないかもしれない。ここにきてようやっとジョンは時計を持ってくることを忘れたな、と思い出した。
 それでも今は進むしかない。木々の間から微かに見える空が茜色に染まるまで進んで、“街”が見つからなければ大人しく帰ろうと思いながら。
 立ち止まっては安全を確認し、立ち止まっては空を見上げていたジョンは、やがてその先に森の終わりを見た。期待と不安を胸の内に秘めながら残りの数メートルを足元も見ずに歩いていく。
 やがて開けた視界には、赤いレンガ道に無人のベンチ。花壇の並ぶ広場の中央には噴水が設置されており、さあさあと水の流れる音が周囲を包んでいた。遠くへ視線をずらせば、そこに立ち並ぶのは白亜の建物たち。

「白い、街」

 呟いた言葉は風に消える。呆けたまま森と街の境界線上に立ち尽くしていると、建物の影から人が出てくるのが見えた。

「あら……。新しいお客様かしら」

 姿を現したのはジョンと同じか、少し上くらいの少女。黒いドレスに身を包み、整った顔の半分は細工の施された仮面に隠されている。ゆるくウェーブのかかった黒髪のツインテールを揺らしながら、少女はジョンのすぐ側までやってきた。

「初めまして。私はレティ、貴方のお名前は?」
「ジョン、です。あの、えっと……。レティさん?」
「ええ。どうかしました?」

 その名前にジョンはひどく動揺する。祖母の昔話が本当だったとして、当時レティという名の人物は祖母と同じくらいの年のはずだ。たまたま同じ名前かもしれないが、この不思議な街の中から出てきて、聞いていたのと同じような容姿の人物が別人であるとは考えにくかった。
 いくつか意味をなさない言葉の後に、ジョンは一つの疑問を投げかけた。

「あの、レティさんはマリアって女の子を知ってますか?」
「マリア? ……ええ、心当たりはあるけれど」
「やっぱり。えっと、これ!」

 ジョンはポケットから指輪のネックレスを取り出す。それを見ると、レティははっとした顔でもう一度ジョンをじっと見つめた。

「これ、おばあちゃんがお守りとして僕に渡してくれたんです。その時に、レティさんに最後のお礼が言えなかった、って」
「そう……。本当に、持ち続けてくれたのね」
「おばあちゃん、今すごく大変な時で。側にいたいけど、でも、僕が今できることはこれくらいしかないから」

 鼻を真っ赤にし目に涙をため、ジョンは今にも泣きだしたい気持ちをぐっとこらえてレティを見る。その真っすぐで素直な様子に、レティは今はもう会えなくなった友人の姿を重ねていた。

「ありがとう」

 ジョンを通して、レティは確かにマリアの言葉を受け取った。

「こちらこそ。ジョン、貴方に感謝を」

 ざあ、と風が木々の間を通り抜ける。さして強くもない風がジョンの足元の草花も揺らし、その様子を見たレティは彼に早くマリアの元へ戻るよう提案した。

「もうすぐこの場所は閉じてしまう。マリアの元へ戻って、伝えて頂戴。私も貴女を忘れたことはない、他の人達もあの時と変わらず過ごしているって」
「わかった。それじゃあ……」
「ええ、さようなら。振り返らずに、真っすぐに行きなさい」

 その言葉に頷くと、ジョンは元来た道をゆっくりと戻っていく。草木を押しのけ枝葉を払い、薄暗い森を祖母の家へと。



「おばあちゃん、聞こえる?」

 握った手がぴくりと反応する。おそらくはこれが、今のマリアにできる精いっぱいの返事なのだろう。
 ジョンは森から祖母の家へと無事に帰ってくると、両親と両親になにやら難しい話をしていた医者にあいさつをした。そして祖母の様子を見てくるといい、彼女の部屋へと向かう。
 白いベッドの上に横たわる彼女は安らかで、本当にまだ生きているのかと疑うくらいだった。暖炉のそばで見た時よりも顔色が悪くなっているような気がした。

「あのね、おばあちゃんが倒れてからあの森に行ったんだ。ちょっと怖かったけど奥へ進んでいってね、会えたよ。レティさんに」

 手が動いて、ジョンの手を握る強さが少しだけ増した。それで? と話を促されているような気がして、なおもジョンは話し続ける。

「レティさん、おばあちゃんのこと覚えてたよ。忘れた事なんかないって言ってた。他の人たちも、変わらずに過ごしてるって」

 冷えた祖母の手をさする。ジョンの話への相槌か孫の気遣いへの感謝か、マリアはゆっくりと手を握って離す。

「ちゃんとね、おばあちゃんの言いたかった言葉も言ってきたよ。……だから、早く良くなってね」

 ジョンの言葉に、マリアはゆっくりと瞼を開く。どこかを見ようとしながらもよく見えないのか、視線は天井に向かったままだった。その代わり弱い力ではあったがジョンの両手から片手を抜け出してふらふらと空中をさまよい、やがて愛しい孫の頭へと手のひらを置く。数回撫でるような動作をして、そのまま彼の頬へと手のひらを滑らせた。

「……おばあちゃん?」

 瞬きした後にジョンの頬から手のひらは離れ、瞼は再び固く閉ざされた。ジョンの背筋に、嫌な冷たさが張り付いた。
 ジョンは慌てて立ち上がると、両親と医者のいる部屋へと戻っていった。



 眠るように、夢見るように息を引き取ったマリアの葬儀が行われたのは、それから二週間と少しが経った頃だった。シンプルな木製の棺桶に名前の掘られた小さな墓碑。彼女の家の周辺にひとつだけ建っている教会の年老いた神父が、祈りを込めて粛々と言葉を上げていく。彼女が無事、主の元へ導かれますように、と。
 墓地の周囲を囲む木々はざわざわと風に揺られてざわめき、ジョンにはそれが祖母を悼む歌のように聞こえた。
 葬儀に集まった親戚はごくわずかで、その親戚たちは遠巻きにジョンを眺めながら「可哀想にね」「あんなに親しかったのに」「気の毒だね」とささやき合っている。その声を受けながら、ジョンはただじっと、祖母が埋葬されていくのを見つめていた。
 マリアが亡くなった日、ジョンは祖父が亡くなった時以上のショックを受け、今までにないくらい目を晴らしながら泣き続けた。父も立て続けに両親が他界し参っているようだったが、協会への連絡と葬儀の取り決め、親族たちへの連絡を回しているうちに当日になってしまったというような状況だった。母も父を支えながらジョンをなだめ続ける毎日で、心身ともに疲れ切っている。
 二週間が経った今、ジョンは気持ちの整理がついてすっきりとした顔で参列していた。両親は疲れと安堵とでやっとマリアを悼むことができ、涙を浮かべうつむいている。その隣でジョンだけが、しっかりとマリアの行く末を見ながら祖母の最期を思い出していた。
 あの日、彼女が自分の昔話を始めた時に、はっきりとは言えない違和感を彼は確かに感じていた。それが彼女の纏う死の予兆だったのかどうかは分からない。ただその後レティと会って、その話をした時の祖母の顔があんまりにも満ち足りたような穏やかな顔だったから。だからジョンは心のどこかで、その様子に泣きながらもほっとしていたのだ。
 神父の言葉を聞きながら、ジョンは首にかけたガーネットの指輪のネックレスをそっと握りしめ、誰も知らない祖母の一番の願いを心の内でそっとこぼす。
 どうか彼女が、もう一度友人と会えますようにと。



 allegory fin.