元来た道を戻っていくと、レティの店の前にマリアは見知らぬ人影を見つけた。
 そのまま近付いていくと、ぼんやりとしていた姿がはっきり目に映る。マフラーを巻いた少年のようだ。マリアやレティよりも少しばかり年下に見える。
 レティは少年を視認するとくすりと笑みをこぼし、声の届く距離まで近づいて彼に声をかけた。

「どうしたの、ビル。こんな所で」
「……レティ」

 ビルと呼ばれた少年が二人へ振り向く。明るい緑の短髪と丸く大きな蒼い瞳を持っている少年だ。ぼそりとレティの名前を呼んだ様子から見るに、どうやらそれほど喋るのは得意でないらしい。
 ビルは視線をレティから外すと、マリアの方をじっと見つめる。その視線に気付いたレティは、まずマリアに彼を紹介した。

「この子はビル。私の弟みたいな子なの。素直でいい子よ。――それと、こちらはマリア。ついさっきこの街に来たの」

 マリアの紹介を終えると、ビルは軽くお辞儀をして挨拶の代わりとする。マリアもそれにならって、スカートの裾を軽くつまんでお辞儀をした。
 そしてビルはレティへと再び視線を向ける。

「……住むの?」
「いいえ。彼女は迷い込んでしまっただけだから」
「そう」
「それより、どうしたの? 私に何か話があったのでしょう?」

 レティはビルの質問に答えると、本題へとうつりだす。ビルはちらちらとマリアに視線を移し気にしながらも、たどたどしく話し始めた。

「その……。レティの欲しがってたもの、できたから……」
「あら、本当?」
「……これ」

 後ろ手に持っていた紙袋をがさりとレティに差し出すと、ビルは「それじゃあ」と言ってその場を去ろうとした。しかしそこでレティは呼び止める。

「ああ、待って頂戴。丁度いいから、ビルに頼みたいことがあるの」

 そう呼び止められると、ビルは足を止めて振り向いた。素直というのは本当のようだ。
 レティはビルにマリアがやってきたことのあらましと、そして猫を探していることを伝えた。言葉にはしないもののこくりと頷いたことから、恐らくビルもトニー探しを手伝ってくれるのだろう。
 そのことに対してマリアからも礼を言うと、ビルは今度は首を横に振った。気にするな、ということだろうか。

「そうね、それともう一つ、頼んでもいい?」

 さらに掛けられた言葉に疑問を浮かべながらも、ビルは再び頷く。

「よかったら、マリアの靴を作ってあげて欲しいの」

 すっかりレティの個人的な用事だとばかり思っていたマリアは、予想外の出来事にびっくりして思わず声を上げた。

「そんな、靴を作るなんて……」
「この子、こう見えて靴職人なのよ。今だってほら、私が頼んでいた靴を作って持ってきてくれたの」

 そういってレティは紙袋の中をマリアに見せる。その中に入っていたのは確かに仕立ての良い靴で、到底目の前の少年が作り上げたものだとは思えないほどだった。

「これ、本当にあなたが作ったの? すごい……!」

 いちから丁寧に作られたものだと分かる黒い革のブーツを見ながらマリアが感嘆の声を上げると、その隣でレティがふと笑みをこぼした。

「もう随分同じような靴を履いているものだから、いろんなところが傷んでしまって。それで彼に頼んでいたの。マリアもほら、その靴じゃ帰る時に歩きにくいでしょう?」

 自分の靴のことを言われて、マリアは改めて足元を見る。レティの言う通り、確かにこれでは森を歩いて帰るのは難しいだろう。
 木々が生い茂り、普段人の通らないような場所を通って歩いてきた靴には、枝や葉、小さな石で削れた傷がいくつも付いていた。それだけでなく、街や村の中などの平坦な道を歩くのならともかく、ヒールのあるブーツではいつ怪我をしてもおかしくない。
 
「……。マリアのも、作ってあげる」
「えっ本当に? いいの?」

  マリアが自身の靴を様々な角度から眺めていると、彼は初めてマリアに対して口を開いた。衣服はともかく靴まで用意してもらうのはなんだか申し訳ないと思いつつも、ビルの手で作られる靴はどんなに素敵だろうとマリア考えてしまうのだった。それほど彼が作ったレティの靴は美しく仕立てられていたのである。
 言葉を交わす二人にくすりと笑みを浮かべると、レティはそれじゃあ、と提案する。

「隣の家に入りましょう。マリアには暫くそこに住んでもらおうと思っているから。靴の採寸はそこでお願いできる?」

 レティの言葉にビルがこくりと頷くと、三人は店のすぐ左隣の小さな平屋へと入っていった。
 レティが扉を開けて足を踏み入れると、マリアは本日何度目かの感嘆のため息をつく。

「わあ……。ここ、本当に使ってもいいの?」
「ええ。空いているから、好きに使って頂戴」

 西日にきらめく室内は、ぱっと見だけで言ってしまえばとても質素なものだった。
 入ってすぐに見えるリビング、それに続く小さなダイニング。少し家の中を探索するとシャワー室もトイレも寝室もあって、小さな平屋とは言えどマリアに貸し与えるには十分な広さがあった。
 さらによく見てみると、机や椅子、照明などに細やかな細工が施されている。
 空き家だとレティは言っていたが埃っぽくはなく、室内はどこも小奇麗でさっぱりとしていた。
 暫くして家の中を歩き回っていたマリアが満足してリビングへと戻ってくると、ビルがメジャーを持って立っていた。そのことに靴の採寸をするのだったと思い出したマリアは、あっと声を上げて近付いていく。

「ごめんなさい。素敵なお家だったからつい見てきちゃった。ビルくんも忙しいだろうに、ごめんね?」
「……そんなに忙しくないから、大丈夫」

 マリアの言葉に首を振りながらそう答えると、ビルは椅子を一脚テーブルの下から引いて、マリアに掛けるよう促した。椅子に腰掛けるとマリアはビルの指示に従って両足の靴を脱ぎ、彼に委ねる。
 もともとそんなに話す方ではないビルは黙々とマリアの靴を作るために採寸をしていく。洋服のポケットから取り出した小さなくしゃくしゃの紙に、これまた小さな鉛筆で数字を書いていく。更に彼女が履いていた靴をしげしげと眺めると、何やら紙に書き足していった。

「……これで、大丈夫」
「ありがとう。手際がいいのね」

 返却された靴を履きながらマリアがそう感想を漏らすと、ビルはぐっと押し黙る。頬が微かに赤いところを見ると、どうやら照れているようだ。

「それじゃあ、ぼく行くね」

 すっと立ち上がるとドアの向こう側へと消えていくビル。その背中に「ありがとう」と再び声を掛けると、彼は少しだけ振り向いて小さく手を振った。
 照れ屋で不器用な彼を微笑みながら見送っていると、今まで席を外していたレティがマリアの元へと戻ってきた。どうやらここでも紅茶を淹れてくれたらしい。ビルがドアの向こう側へ消えていくのを見届けると、残念そうに肩をすくめた。

「ゆっくりお茶していけばよかったのに」
「きっと忙しいのよ」
「そうね。貴女の靴を作るんだもの」

 レティは丸い小さなテーブルの上に紅茶のセットを置いて、マリアの向かいの椅子を引いて座る。ティーカップに静かに紅茶を注ぐと、それぞれの前にひと組ずつ音も立てずに置いた。
 レティの仕草は一つひとつが丁寧で無駄がない。彼女が再び見せた上品さに、またしてもマリアはため息をつく。彼女は良家の令嬢のようでいて、その執事や給仕係のようであった。

「暖かいうちに召し上がって。お話ばかりで、楽しめていないでしょう?」

 角砂糖を二つとミルクを少し注ぎながらレティが促すと、マリアはええ、と返事をしてティーカップを持ち上げる。すっきりとした豊かなストレートティーの香り。マリアも二つ角砂糖を入れて溶かすと、その甘い紅茶を心ゆくまで楽しんだ。
 レティが淹れた紅茶もクォルツが淹れた紅茶も、不思議と茶菓子がなくとも進んで飲みたくなる。それだけで心が満たされるような、優しい味わいだった。

「……ねえ、レティ。わたし、聞きたい事があるの。この街のこともそうだけれど、あなたやクォルツさん、ビルくんのこと。聞いたら、教えてくれる?」

 優しい紅茶の甘さに押されるように、マリアはここに落ち着くまでに抱えたことをレティに質問しようと決心した。
 クォルツとレティの説明で、この街がマリアのいた街と幾分か事情が違うことは分かった。今トニーを探し出しても、今すぐには帰れないだろうことも。それでも、マリアがここに来た時に感じた寂しい街という印象は、三人に会っても拭えはしない。それどころかますますその印象は強くなっていくのだ。
 悩みを抱えていないかと質問をしてきた、レティのその言葉の意味も気になる。ひょっとしたら、踏み込まれたくないことかもしれない。そう思って確認を取るために言葉を口にすると、レティは空になったティーカップのふちを軽くなぞりながら思案しているようだった。

「そうね。……貴女には、話してもいいのかもしれない。人に好かれる、貴女になら」

 俯いたままレティが呟いたその言葉に、マリアは思わず身を乗り出す。ふと彼女が顔を上げたかと思うと、くすりと笑ってさらに言葉を付け加えた。

「でも、この話しは明日にしましょう。もう日も暮れるもの。色々あって大変だったでしょう? ゆっくり休んで頂戴」
「……うん。わかったわ」

 窓の外では茜色が藍色に飲まれそうになっていた。いくつか見知った星の光も見える。着替えは後で持ってくるわね、と言ってレティは家を後にしたのだった。


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2016/5/13 一部修正