これから始まる過去の彼女の物語、その序章。




 広大な暗い森を背後に建てられた屋敷の前に紺色のワゴン車が止まる。小さな村から少し距離を置いた所にあるその屋敷は、ほんの数年前まで近くの村の規模がまだ大きかったことを表していた。そして、その屋敷の主が多少なりとも権力を持っていたのであろうということも。
 ワゴン車を降りると、ジョンは父よりも母よりも先に屋敷の赤い屋根の下へ行き鍵でドアを開けた。オレンジ色をした厚手のマフラーが彼の動きに合わせてゆらゆらと揺れる。そうしてほとんど駆けるようにして、彼の大好きな祖母のいるであろう暖房のある部屋へと向かった。

「ジョン、廊下は走らないのよ」
「ごめんなさい。寒かったから」

 少し立て付けの悪くなったドアを開くと、パチパチと爆ぜオレンジをともす暖炉のそばに、揺り籠のようにゆれる椅子に座った祖母がいた。どうやら本を読んでいたようだが、ジョンが部屋へ入るとぱたんと閉じて、最後にあった三年前よりも一層やわらかい笑みを浮かべて彼を迎え入れた。彼は彼女の、自分の父親と瓜二つな笑顔が好きであった。実際には彼の父が彼女に似ているというのが正しいのだが。

「ジョン、まずは挨拶をしないと」

 追いついた父親に言われ、ジョンは慌てて祖母に「こんにちは」とお辞儀をした。祖母もそれに対し笑顔で「こんにちは」と応える。それを合図にジョンはまいていたマフラーをほどき、祖母の足をいたわるようにして膝掛けの上にそっと置く。その動作の間に、父も母も三年振りの挨拶を交わし終えたようだった。

「それじゃあ、俺たちは父さんの遺品の整理をしてくるから。ジョン、おばあちゃんを疲れさせないようにな」
「お義母さんも無理はなさらないでね」

 祖母が笑顔で見守る中、父と母はジョンの頭をひとなですると部屋を出て行った。両親がドアをくぐり足音が遠ざかると、ジョンは祖母の服のすそを軽く引っ張る。

「おばあちゃん、何かお話聞かせて」

 ジョンは今年で十五になる少年で、多くの友人と同じように遊ぶことが好きであったが、それにも増して数年に一度しか会うことのできないこのやさしい話し上手な祖母の口から語られる、様々な不可思議な不可思議な物語を聞くことの方がよっぽど好きであった。三年前この屋敷を訪ねたときは祖母の次に慕っていた父親の葬式であったし、そのときは父親の仕事の都合で住んでいる町に早く帰らなければならなかったために、ジョンはこの日を今か今かと待ち続けていたのだ。たとえ訪れた目的が足の悪い祖母に代わっての遺品の整理だったとしても、祖父がなくなった事になかなか実感を抱けない彼にとっては、無関係のようなものであった。
 祖母は笑顔はそのままにジョンの言葉に耳を傾け、そうねぇと言ったきり暫く、ゆらりゆらりとオレンジをともしながら爆ぜる薪の音を心地よさそうに聞いていた。その沈黙を煩わしく感じ出したジョンが再び祖母の裾を引っ張りせがもうとしたとき、ようやっと彼女はその口を開いた。

「それじゃあ、私の昔話でもしましょうか」
「昔話?」
「そう。私がまだ、あなたくらいの年の頃の話よ」

 祖母が昔話をしたがるというのはとても珍しいことであった。昔よく祖母の若い頃の話を聞きたいとねだったことがあったが、どれだけねだっても祖母は笑うだけで、まったく違う話をされてよく誤魔化されていた記憶がある。違和感を感じたものの幼い頃聞くことのできなかった話を聞けるとあって、彼はその話にすぐに食らいついた。

「あれはもう四十年も昔の事だけれど、最近よく思い出すの。あの頃も寒い日が続いていたからかしらねぇ……」

 近くのテーブルから椅子を持ってきて座りすっかり話を聞く体制となったジョンの栗色の頭をゆっくりと撫でながら、一言一言をかみ締めるように話し出した。いつもジョンの目を見るように話す祖母にしてはまた珍しく、かつての祖父がしていたように昔を懐かしむ遠い先を見るような目をしていた。しかしその動作ひとつひとつはジョンの好奇心を悪戯に煽る。

「近くの村が今よりもっとおおきくて、私は村でも少し有名な家柄の子供だったの。今ではもうなんともないけれど、当時は猫を飼っている人なんてほとんどいなかったのよ。灰色の猫を飼っていたのは私の家だけだったわ。その猫はトニーと言ってね、ある日、突然この屋敷を抜け出して出て行ってしまったのよ」

 彼女はいっきにそれだけ話すと一呼吸をおいて、ようやっとジョンの目を見る。きちんと最後まで聞いて頂戴ね、と言い彼の栗毛を梳くと続きを話し始めた。