不可思議な街、不思議な人々。




 翌朝レティはパンとスープを用意してマリアの仮住まいへとやってきた。レティのお古だという白を基調としたシンプルなドレスに身を包みながら、マリアは彼女を迎え入れる。何気ない会話を交わしながら二人で朝食を食べ終わると、食後の紅茶を楽しんだ。

「昨日はよく眠れた?」
「ええ、おかげさまでぐっすり。ありがとう」
「どういたしまして」

 室内に残るパンとスープの仄かな香り、きらきらと注ぎ込む太陽の光。立ち上るミルクティーの湯気に頬を緩ませながら、ところで、とレティは話を持ちかけた。

「昨日、聞きたい事があるって言っていたわね」

 マリアがこの仮住まいに案内されて、ビルに靴の採寸をしてもらって、それからレティとティータイムを楽しんでいた時。マリアはその時飲んだ紅茶に背中を押されて、ずっと気になっていたことを聞こうとレティに話を持ちかけたのだ。
 レティの言葉にこくりと頷くと、彼女はマリアの目を見たまま何から話すべきか戸惑っているようだった。

「……私も、全てを知っているわけではないの。この街のことは、知っている限りのことしか話せない。私とクォルツに関しての話ならできるけれど、ビルに関しては話せないわ。あの子にも、あの子の事情があるから」
「ビルくんは弟さんじゃないの?」
「弟みたいなもの、よ。実際に血が繋がっているわけではないの」
「そうなんだ……」
「ええ。それで、マリアは何を聞きたい? あなたの知りたいことから答えるわ」

 そう言われると、マリアも考え込んでしまう。てっきり彼女が順序立てて話してくれるものとばかり思い込んでいたから。
 暫くの間手にした紅茶をカップの中で弄んでいたが、ふとレティを見ると一番聞きたかったことが口から零れていく。

「この街のことを教えて。どうしてこんなに寂しいの? 人は住んでるんでしょう?」

 用意されたパンやスープ、紅茶などは、誰かが調達しない限り手に入れることはできないものだ。レティとクォルツとビルだけで成り立っているわけではないだろう。他にも人がいるはずだ、とマリアは考えたのだ。
 しかしそれにしては人気がない。ひっそりと静まり返って、レティの口から他に人は住んでいないと言われてしまえばすんなりと信じてしまいそうなほど。
 レティはマリアから視線を外し少し考え込むと、おもむろに話し出す。

「……そうね、人は住んでいるわ。だけど、みんな顔を見せようとはしないの」
「どうして?」
「ここに住む人たちは、それぞれ苦しい事や悲しいことを背負っているから」

 自分たちの殻に閉じこもりがちなのね、と続ける。その言葉に、マリアはレティと初めて会ったときのことを思い出した。

「ひょっとして、最初にわたしに思い悩んでいることは、って聞いたのは……」
「ええ。ここに来る人たちは、何かを抱えてくることが多いから。貴女も、その一人なんじゃないかと思って」
「そう……」

 とても真剣に聞いてきたレティのその瞳と言葉の意味を思い知る。ひとつだけ疑問は解消されたが、それとは別の、まったく新しい疑問がマリアを悩ませた。

「どうして悩んでいる人がくるの? ……レティも、何かあったの?」

 新たな質問に、少しの間レティは沈黙する。しかしすぐに首を横に振ると、マリアの疑問に誠実に答えた。

「悩んでいる人ばかりが訪れる理由は分からないわ。私も……そうね。悩みがあった、と言ったほうが正しいかも知れない」
「あった?」
「そう、あった。もう過去のことなの。……生まれた家で色々あってね、ここに来れた事で、もう全て解決してしまったの」
「じゃあ、レティは今悩んではいないのね?」
「ええ」
「よかった……」

 彼女の答えを聞いて、マリアは心底ほっとした。今話し相手になってくれている彼女が何かに悩んでいたとしたら、例え自分では力になれないと分かっていてもひどく悲しくなってしまうから。
 どうしてこの街に悩んでいる人ばかりが集まるのかはわからないままだったけれど、マリアはそういうものなのだ、と思い込むようにした。分からないことでも事実であることを飲み込もうとするのは、マリアの美徳だ。
 そうして、疑問を次に繋げる。

「それじゃあ、マリアとクォルツさんに関して、教えてもらってもいい? 二人はどうしてここに来たの?」
「私はさっき言った通り。家でちょっとしたいさかいがあって、逃れたいと思っていた時にこっちへ来たの。……クォルツに関しては、きっと私を家から逃したかったんじゃないかしら」
「二人は知り合いなのね?」
「そうね。知り合い、というより、一応これでも婚約者なのよ」
「そうなの!?」
「ええ」

 驚いて思わず身を乗り出したマリアに、レティはくすくすと笑う。驚いた表情の中に、ひときわ輝くマリアの瞳。きっと素敵だなあ、なんて思っているのだろう。実際レティの思った通り、マリアはなんて素敵なんだろうと目を輝かせていた。

「でも、今の彼とは良い友人よ。親が決めたことだったから、二人とも乗り気ではなかったし」
「そうなの? でも、クォルツさんはレティの為に力を貸してくれたのよね?」
「それが彼の為でもあったから。マリアの思っているような甘やかな恋はないの。ごめんなさいね」
「う、ううん。わたしのほうこそ、ごめんなさい」

 ガタリとはしたなく音を立てて立ち上がった姿勢のままだったことを思い出すと、マリアはほんのりと頬を赤らめて椅子に腰かける。まだ湯気が立ち上り暖かな紅茶に口をつけると、落ち着いて目の前の少女の顔を見ることができた。
 年相応に、マリアは恋の話をするのが好きだった。だからこそレティの話に残念に思うことはあっても、友人として接してくれるレティやトニーの探索に前向きに頷いてくれた優しいクォルツが幸せであることは、なにより喜ばしいもの。その事実を噛み締めるだけで、マリアは胸が暖かくなる思いだった。

「ねえ。レティたちはいつごろからこの街に住んでいるの?」

 そうして次に出てきたのは、彼女たちがここに住み始めてどのくらいになったかというもの。今度も普通に受け答えをしてくれるものと思っていたが、マリアの予想に反してレティは困った表情をするばかりだ。

「どのくらいになるのかしら……。たぶん、もうずっと長いことよ。数えるのが億劫になるくらい」
「数えてないの?」
「だってこの街には日付というものがないんだもの。皆がみんな、その日一日を在るように暮らしているだけだから」
「それじゃあ、お誕生日も記念日も分からないじゃない」
「そうね。でもそれでいいの。ここに住む人たちは、お祝いごととは疎遠だから」

 肩をすくめてそう言うと、残っていた紅茶を口に入れてレティが立ち上がる。

「さあ、そろそろ行きましょう」
「行くって、どこへ?」
「トニーを探してくれる人の所へ。……ちょっと癖のある人だけど、行くでしょう?」

 レティの誘い文句は、昨日会った二人以外のことを物語っている。マリアはその言葉に大きく頷くと、彼女と一緒に扉の外へと向かった。