マリアの仮住まいを出て時計塔を背に、ぐるりぐるりと緩やかな坂を下っていく。日は高く暖かく、白い家々は陽光を反射して輝いている。風はマリアがやってきた時と同じように吹き、花の香りを運んできた。
 狭い路地を通り抜け右へ左へと曲がっていくと、段々と陽の光が遮られていく。広い通りとは違い薄暗いそこは、この街独特の静けさと合わさって、一層不気味に感じられた。マリアの前を歩くレティは、けれど堂々と迷いなく進んでいく。ここに来るまでの道を一つ一つ覚えてなどいないものだから、マリアは不安を抱えながらも彼女にただ付いていくしかないのだった。
 やがて細い通り道をひとつふたつと抜けていくと、ぽっかりと明るく陽の差す空間が目の前に現れた。例えるならば森の中の安息所のような。街の中にある公園のような。住宅街で風通りの良い空き地のような。
 赤いレンガは中途半端に途切れ、その暖かな空間の中心には青い芝生が空へ向かって背伸びをしている。その上には周りの建物よりも白いテーブルに白い椅子。テーブルの上には細かく編まれたレースのクロスが敷かれ、さらにその上に柔らかな香りを立ち上らせる紅茶に美味しそうな焼き菓子。その前の椅子には対照的な黒い燕尾服に奇抜なデザインのシルクハットを被った男が座っていた。

「素敵なティータイムね、オルフォース」
「これはこれは宝飾のお嬢さん。ご機嫌いかがでしょう?」
「良好よ。とてもね」

 レティが話しかけるとオルフォースと呼ばれた黒い服の男はティーカップを軽く持ち上げて挨拶した。どこか芝居がかった口調でそれはよかった、と続けると、さらに口を開く。

「影に居ては寒いでしょう? 凍えてしまうかもしれません。どうぞこちらへ。お嬢さん方には、暖かい紅茶を淹れて差し上げましょう」

 招かれるまま二人は男の側へと近付いていく。背の中頃まで伸ばされた白銀の髪、長い前髪、それを覆うようなツバの広いハット。声をかける前からニンマリと上に向いた口角によって、男の表情を読み取るどころか年齢すらも見当がつかない。ただそれなりに艶やかな肌と声によって、青年の部類ではあるだろうことだけは察せられた。
 ここでもまたマリアのためにイスを引いて待つマリアに礼を言って腰掛けると、男はさっそく口を開いてレティに疑問を投げかける。

「時にレティ嬢。こちらのお嬢さんはどなたでしょう? 私には見覚えがないのですが」
「そうでしょうね。彼女が訪れたのは昨日のことだもの」
「マリアと申します。レティのところでお世話になっているんです」
「マリア、こちらはオルフォース。怪しいところもあるけれど、腕は確かな帽子屋なのよ」
「怪しいだなんてとんでもない! 私にとってははこれが自然体、これが在るべき姿。そんな風に言われてはマリア嬢が身構えてしまうではないですか。ねえ?」
「えっあ、はあ……」

 ほうらご覧なさい、と口を回しながらオルフォースは二人に紅茶を差し出す。果物かなにかのフレーバーティーのようで、甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
 どことなく棘のある対応のレティとそれにめげることなく軽快に喋りだすオルフォースに挟まれて、マリアはどうすればいいのかぐるぐると思案し始めた。確かにレティの言う通り少し怪しい感じはするけれど、それほど悪い人でもないのではないか、とも思うのだ。わざわざ席に座るよう促したり紅茶を入れたり、それなりに甲斐甲斐しく動いてくれているのだから。
 差し出された紅茶を一口含みながら思考しているうちに、マリアの心境を知ってか知らずかレティは手早く要件を済ませようと口を開いた。

「そんなことより、貴方にひとつ頼みがあって来たのよ」
「頼み。頼みですか。他の方々からも極力避けて通られる私に頼みとは、一体どのようなご要件でしょう?」
「猫を探して欲しいの」
「猫?」
「わたしが飼っている、灰色の猫なんです。名前はトニーというの」

 トニーの話が出た以上、会話に参加しないわけにはいかないとマリアが口を挟む。と、オルフォースは上げていた口角をさらに上へと釣り上げ、愉しげにマリアへ口を開き始めた。

「アナタは猫を飼育されているのですか。名を付け、首輪を付け、自宅に拘束し、愛玩する為だけに、猫を」
「えっ……」

 突然発せられた言葉にマリアは戸惑うしかない。彼は隠されたその瞳を射抜くように睨みつけるレティの視線をあっさりと無視したまま、大仰な身振りを加えさらに言葉を続けて放つ。

「ああ、なんというエゴイストでしょう! 生在るものを拘束し手懐け愛でるためだけに飼育するなどと! 猫とは本来地を駆け空を往くものたちの狩人だというのに!」
「……オルフォース」
「自身のエゴによって他の生物の活動を掌握するなど、愚の極み! そうは思いませんか、レティ嬢?」
「口を慎みなさい、オルフォース。彼女は私の客人よ」
「おやおや、気を悪くされたのであれば申し訳ありません。決してアナタを避難しているわけではないのですよ、お嬢さん。ましてやレティ嬢の大事な客人を弄ぼうなどと以ての外。どうぞこれは、私個人のひとつの意見としてお考えいただければ」
「あ、あの……」
「さあそう怯えずに。暖かい紅茶のおかわりは如何ですか? 焼き菓子もどうぞ、遠慮せずにお召し上がり下さい」
「け、結構です」

 マリアにはその誘いを断ることが精一杯だった。オルフォースの放った”個人の意見”に対して、反論のひとつも出ては来ない。それはある意味正論であり、彼女にはそれに対して怒りすら湧いてこない。胸中に渦巻くのは不安と、後悔と、哀しい気持ち。
 ひょっとしたらトニーは家に縛られるのが嫌で屋敷から抜け出したのではないか? 自分に追いかけられるのも迷惑だったのではないか? あの場所に帰りたくないから、姿を現さないのではないか? 不安が募りすっかり暗くなってしまったマリアの様子に、レティはこれ以上この場にいるのはよくないだろうと、早々に席を立った。

「本当に、口が過ぎるわよ。今日はこれで失礼するけれど、トニーのことは忘れないでね。紅茶ありがとう。貴方の口がなければ美味しかったわ」
「これは厳しいお言葉ですね。猫の方は見かけましたらご報告しましょう。ええ、お嬢さんがいらして下さればね」

 行きましょう、と言ったレティの言葉に促されてマリアはのろのろと立ち上がる。形ばかりのお礼とお辞儀をすると、にたりと笑ったままひらひらと手を振るオルフォースに見送られながら、暗い日陰へと入っていく。俯きながらも、マリアは必死に涙をこらえていた。