辿ってきた日陰ばかりの坂道を登りながら、レティはマリアとオルフォースを引き合わせたことを後悔していた。少々性格に難があるといえど、彼はこの街で言葉を交わせる数少ない住人だ。引き合わせ頼みごとをすれば、少しは彼女の力になるだろうと思っていたというのに。
 結果として、それは失敗だった。彼はマリアを追い詰めることに高揚し、彼女はオルフォースの散々な言葉によって傷つけられてしまった。一言話すだけで精一杯で、その場から離れることに全力を使ってしまうくらいに。
 あの日だまりのティーパーティーから十分に離れたところで、レティは後ろに続くマリアに声を掛けた。

「ごめんなさい、マリア。まさかあんなにも口が過ぎるだなんて思わなかったの。彼の言葉は気にしないで頂戴ね。あれでも、ただ戯れているだけと思っているのよ」

 そう、悪気はないのだ。だからこそ質が悪い。意地の悪い言葉のやり取りこそ社交だと思っている節が彼にはあるのだ。精一杯のフォローを込めて言葉を口にすると、俯いていたマリアはゆっくりと顔を上げた。
 その顔は苦しそうに歪められていて、出会ったときからの明るい彼女に一番相応しくない表情だと、そしてその原因を作ってしまったのは自分なのだとレティは痛感する。
 マリアはレティに視線を合わせると、そこでようやっと言葉の意味を理解したかのように瞬いた。そうして、暗い表情のままでゆっくりと首を左右に振る。

「……いいの、大丈夫。レティは、わたしのためを思ってしてくれたんでしょう?」

 そう言って、無理矢理に微笑む。しかしすぐに顔を俯かせて、ぽつりと心の内を吐き出した。

「――トニーにとって、わたしは邪魔だったのかしら」
「マリア?」
「オルフォースさんも言ってたじゃない。それはわたしのエゴだって。トニーはわたしのせいで不自由で、それが嫌でいなくなったんじゃないかって……。そう考えると、不安で、悲しくて……」

 ほろり、と一粒の涙がマリアの頬を伝う。それは彼女がオルフォースの言葉を聞いてからずっとずっと心の内で自身に問い続けていた不安が、表に出てきたものだった。
 その一粒を皮切りに次々とこぼれ落ちる大小さまざまな透明の雫。マリアはさらに言葉を続けようとしているが、全て喉の奥に引っかかってしまっているようだった。
 レティはそっと、マリアに寄り添うように彼女の側へと足を進める。驚かせないようにゆっくりと優しく彼女の手を取って、レンガの積み上げられた段差へ腰掛けるように誘導した。
 マリアがされるがままに段差へ腰掛けると、レティはことさらに優しい声で、彼女に問いかけをした。

「ねえマリア。トニーはどんな子だったの?」

 なんでもない話をするように、彼女の顔を覗き込みはしない。彼女が今抱えている気持ちを含めた仮定の話ではなく、彼女の中にある思い出を聞きたいからだ。

「貴女とトニーはどんな風に過ごして、どんなことをしたのかしら。ゆっくりでいいから、教えてくれない?」

 日が高くなり、日陰だった坂が暖かい陽光に包まれると、マリアはぽつりぽつりと問いかけに答えていく。
 彼が子猫だった時に知り合いから譲ってもらったこと。小さな頃はやんちゃで、マリアは彼に噛み付かれて泣かされてばかりいたこと。彼女が落ち込んでいると、いつの間にかすり寄って慰めてくれたこと。暖かい日だまりでの昼寝が好きで、よく一緒に丸くなっていたこと。寒い冬の日は暖炉の前で、マリアが読み上げる物語を聞きながら寝るのが好きだったこと。
 それらのことを、レティはただ適当な時に相槌をうつだけで遮ることはしなかった。
 たくさんの些細な思い出を口にする度に、マリアは懐かしさと愛おしさで胸がいっぱいになった。それと同時に、ちくちくとした棘が刺さっていく。あの時もその時も、本当は仕方なく付き合ってくれただけだったのではないか。彼は本当は、外に出たかったのではないか。
 マリアが口をつぐむと、レティは再び穏やかな声で彼女に話し始める。

「とっても素敵な時間を過ごした、大切な子なのね」
「うん……大切よ。小さい頃からずっと一緒だったもの」
「そうね。……ねえマリア、飼い主とその子はよく似るって話を聞いたことはない?」
「え……?」

 レティの言葉に顔を上げると、それに気づいたのか彼女は空を見上げていた顔をマリアへと向ける。揺れるマリアの瞳と、柔らかく暖かなレティの瞳。鏡合わせのそれに、互いの表情はよく写りこんでいた。

「猫だけじゃないけれど、動物は本能的に生きているものよ。もし貴女の言う通りトニーがマリアとの生活を嫌っていたのなら、もっと早くに居なくなっていたんじゃないかしら」
「でも……そんなの、分からないわ。だんだん家が窮屈になって、それで居なくなったのかもしれない」
「そう? でも、マリアが大切に思って接してきたのなら、トニーだって同じ気持ちだったと思うのだけど。窮屈だからって、いきなり前触れもなく居なくなったりはしないと思うわ」
「そう……かな……」
「ええ、きっと。何か理由があるのよ。だから、もう少し探してみましょう?」
「うん……。うん、そうね」
「本当のことがどうかなんて、トニーしか知らないんだもの」
「うん」
「元気、出てきた?」
「うん。ありがとう、レティ」

 花が咲いたような朗らかな笑顔で、マリアはレティに礼を言った。その様子にレティもほっとして、二人は段差から立ち上がる。

「それじゃあ、戻りましょう。少し遅くなってしまったけれど、昼食にしましょうか」
「そうね。美味しいものを食べたら、またトニーを探さなくっちゃ」

 二人は顔を見合わせて笑うと、先ほどとは打って変わった軽い足取りで、明るい坂の続きを登っていくのだった。