「灰色の猫、か……」

 アルノスと呼ばれる青年は話を聞いてそう呟くと、続けてレティに声をかける。

「あまり外出はしない。猫を見つけられる可能性は低いぞ」
「でも全くというわけではないのでしょう? ならそれでいいの。少しでも力になってあげて頂戴」

 相変わらず微笑みながらそう答える少女に、アルノスは眉間の皺をひとつ刻みながら疑問を投げかける。マリアはもはや、二人の会話の行く末を見守ることしかできない。

「……どうしてそこまで、そいつに肩を入れる?」
「あら。かわいい子には弱いよの、私。知らなかった?」
「誤魔化すな」

 鋭い視線と声に、マリアは思わず肩をすくめる。そっとレティを見るも、彼女は笑ったままだった。マリアと同じ年くらいの少女とは到底思えないほど、落ち着き払った声でアルノスに答える。

「誤魔化してなんてないわ。ただ、そうね。彼女にはこれといった悩み事は無くて、家へ帰りたいと願っている。そして、貴方が失った帰り道を彼女は持っている。……それでは理由にならないかしら?」
「……」
(失った帰り道……。この人は帰れない、ってこと……?)

 どこか剣呑な雰囲気の会話に言葉を挟めないまま、マリアはレティの言葉にひっかかりを覚えた。目の前の青年も故郷に帰りたいのだろうか。帰れる人と帰れない人がいるのだろうか。その差はなぜ? どうしてそうなっているのか?
 レティは以前、マリアの質問にできる限り答えてくれると言っていた。それがまだ有効であるなら、帰りに道にでも聞きたい。
 二人の雰囲気に気圧されつつも、生まれた疑問と好奇心によって少し気持ちが楽になる。マリアは小さく深呼吸をして、二人の行く末を見守った。
 やがて長い沈黙の後、唐突にアルノスがマリアに視線を向ける。無意識のうちに何か粗相をしてしまったのではとマリアは身を固くした。

「その服、レティのか」
「え……。は、はい」

 マリアが借りたのは、白い布地にレティの左右の髪を彩るリボンと同じ、紺色の飾り紐の付いたシンプルなワンピースだった。マリアの住む村ではもうすぐ深々と雪の降り始める季節なだけあって肌寒さがあるが、この白亜の街では不思議と寒さをあまり感じない。ゆえに厚手の生地でないワンピースであっても、十分に着飾れる。
 しかしレティがかなり昔に着ていたものだと言っていた通り、少し袖が短い。それでも外を出歩いて人に会う分には問題ないように思われたので、マリアは気に入ったその一着を借りることにしたのだ。
 やはりどこか変だっただろうか。レティも特に何も言っていなかったので大丈夫だと思ったのだけれど、と心配していると、思った通りアルノスは袖の短さを指摘する。

「あの森を抜けてきたんだろう。お前の服はどうした」
「その、色が……。それで、レティのお洋服を借りたんです」

 色、という言葉だけで何を言わんとするかが分かったのか、アルノスは窓辺に凭れていた体を起こすと、先ほど通ってきた仕立て部屋の中へと入っていく。少しして戻ってきたアルノスの腕の中には、一つの箱が抱えられていた。

「こちらの方が、お前には合っているだろう」

 とん、とマリアの目の前にその箱が置かれる。ちらりと相手を見るが、アルノスはただじっとマリアを見つめるだけだ。
 白い箱に手を伸ばす。上蓋をゆっくりと開けて目に飛び込んできたのは、鮮やかで軽やかな空色だった。

「わあ……!」

 手に取って広げてみると、一見ワンピースのようにも見えるそれは、少し厚手の生地で作られたコートだった。襟元を飾る白いリボンに、ふわりと広がる裾。体にあてがってみると、丈も袖の長さもピタリと合った。

「ピッタリ……。あの、これって」
「持って行ってくれて構わない。仕舞ってあるよりかは、誰かに着てもらう方が良いだろうからな」

 コートを抱きしめながら様子を伺うと、アルノスはそっけなくそう答えた。箱に入れられ皺ひとつなく、仄かな甘い香りは大切にされてきた証拠で。マリアは彼の言葉にゆっくり頭を下げた。

「ありがとうございます、アルノスさん。わたし、大切にしますね」

 アルノスはマリアの言葉に対して何も言わなかったが、それが彼にとってのなんでもない対応なのだろう。敢えてそっけなくしているわけでも、マリアを邪険にしているのでもなく、それこそが自然体なのだ。
 今ならレティが彼の態度を照れ隠しだと言ったのも分かる気がする。二人の少女は互いに微笑んで、家の主に礼を言ってその場を後にした。



「ねえレティ。聞きたいことがあるの」
「なあに? 私に答えられることなら、約束通りお話しするわ」
「その……。アルノスさんって、本当のおうちに帰れないの?」

 帰り道、二人の会話を聞いていたマリアが抱いた疑問をレティに投げかける。あの時彼に言っていた、“失った帰り道”という言葉について。
 マリアのつたない言い方でも何を言わんとするのか分かったのか、レティはふ、と顔を背けてこくりと頷いた。

「彼はこの街に長く居すぎたから。……帰り道が分からなくなってしまったの」
「どうして? わたしみたいに、クォルツさんの時計では分からないの?」
「ずっと昔に止まってしまったのよ」

 帰り道を失った、という言葉を理解する。クォルツは、彼の持つ時計が動いている限り、マリアの世界と――外の世界と繋がっているのだと言っていた。その四つの針が交わり合う時に、元の世界への帰り道ができるのだと。
 レティの言い方では、恐らく時計は一つだけではなく個々に用意されているのだろう。そしてそのうちの一つ、アルノスの時計が止まってしまった。交差することが無くなってしまった。一度巡り合えるかすらわからない奇跡の道が閉ざされてしまった。
 レティはそれ以上何も言わなかった。マリアもそれ以上何も言えなかった。
 冬を感じさせない暖かなこの街の中でも、陽が沈む頃には気温が下がる。風邪を引かないように着ていくといい、そう言ってアルノスが着せてくれたコートの合わせを抱くように握る。レティの隣を歩く伸びた影は、どこか心細そうにも見えた。

「それじゃあ、おやすみなさい。暖かくしてね」
「うん、ありがとう。また明日」

 そして何事もなかったかのように借りている家へと戻りレティと別れると、ほうとため息を吐く。

(わたしはこのまま、帰ってもいいのかしら。帰りたくても帰れない人もいるのに)

 この街に残ったところで、マリアにできることは何もない。家族と別れ、親しい友人とも別れ、住み慣れた土地、心地の良い故郷を背にして住みたいほど、この街自体が好きというわけでもない。
 初めてこの街に足を踏み入れた時、マリアはとても綺麗なのに寂しい街だと思った。レティをはじめ数人の人々と出会いもしたが、その印象は今も変わらない。
 淡く咲いた花の香。どこまでも続いているかのような白亜の建物たち。澄み渡った青い空に、木々の緑が良く映える。爽やかな風が赤いレンガを通り抜けていく。誰かが夢見た理想のような、美しい、白い街。
 対照的に街の中はガランとした空虚に包まれて、人の気配は感じられるにも関わらず生活感が全く感じられない。膨大な時間がただ存在している場所は、寂しい上に恐ろしくさえ感じるのだ。

(どうしてあんなに優しい人たちばかり、この街にいるのかしら。ここを出たら、もう二度と会えないの? せっかく出会えたのに。わたし、このままトニーにも会えないのかしら)

 胸に沸いた不安を落ち着かせて眠るには静かすぎる街だった。それでも時間だけはゆっくりと、確実に歩み寄ってくる。