雨と憧れと少年少女。




「雨だ」

 唐突に彼女が言った。視線を地上から上に上げると、頬に眼鏡に肩に脚に、ふわりとかかるかかからないかの程度の小雨が明るい雲間から降り注いでいた。

「きれー。コレ何て表現するんだろう。私涙雨しか知らないや」
「――小糠雨だよ」

 話すべきかどうか迷った末喉から出てきた言葉に、少し前を歩いていた彼女はゆっくりと振り返った。僕は目を逸らして「これだけ明るいなら白雨とも言うかもしれないけど」と小さく零す。視線はまたしてもコンクリートで固められた地面に。この数十年ですっかり僕の視線の定位置だ。彼女は軽い感嘆の声を上げてまた視線を空へと戻す。

「……でも、やっぱり私にとっては涙雨、かな」

 不自然な間の後に続いたその言葉に、訳の分からない僕はゆるゆると視線を彼女に向ける。彼女はそれを予測していたかのようにこちらに身体ごと視線を向けていた。

「朔が初めて私と話してくれたから」

 嬉しいから、と彼女は笑って答えた。その視線を受け止め続けるのが辛くなって、やっぱりコンクリートの上に視線を戻す。そうして一歩下がって下足のガラス製の扉に凭れた。放課後の終わり、声が聞こえない程に人が居なくなった時分の雨は冷たくも暖かい。
 彼女と僕は何もかもが正反対だ。性格も、性別も。身に纏う色も。果てには苗字までもが。彼女は満月を表す望という苗字を、僕は新月を表す朔という苗字を生まれ持った。まるで生まれたその時から互いの道が交わる事は無いとでも言うかのように。実際、さっき会話をするまで今の今まで言葉を交わすことなんて皆無だと思っていた。(これが会話と呼べるかどうかは別問題として、だ)。
 彼女は視線を再び空へと向けて、ふわふわとした雨を手を差し伸べて受けていた。
 ――錦のようだと、微かな雨音でぼんやりとした頭の隅で思った。下足の雨よけの下にいたから実際どのくらいの強さなのかは分からない。けれど、彼女と植樹と雨粒たちが織り成す世界は、汚れを知らないように綺麗だった。

「私ね」

 また暫く会話が途切れたかと思われた頃に、彼女は話しはじめた。しかし今度は僕の方に顔は向けず、空に向かって独り言のように、けれどそれは確実に僕に対して言葉を紡いだ。

「朔に嫌われてると思ってた」

 教室にいる普段の彼女からは想像もつかない、悲しげで、どこと無く苦しげな表情で小さく呟いた。僕はコンクリートと相も変わらずお見合いをしている。迂闊に彼女と視線を合わせれば今のような平静は保てないだろう。今の彼女は、きっと今までの僕と何ら変わり無い人間に成り果ててしまっている。

「ほら、私と朔とって、何もかもが正反対じゃない」

 彼女の唇は先程までの悲しげな雰囲気など存在しなかったかのように軽快に滑り出した。そして小さな告白が始まる。
 彼女はどうも他人に嫌われるのが恐ろしいらしかった。その理由が何故かは話してはくれなかったが、“小さい頃に色々あった”らしい。人に好かれようとしていくうち、自然と嫌われているのではないかと思った人物とは関わりを持たなくなっていったとのこと(先程まで僕もその中に分類されていたというのは想像に容易いだろう)。だから僕が返事をした時、驚いたのと共にとても嬉しかったのだとか。僕が彼女を嫌っているわけではないと感じたからだそうで(彼女よりも数倍僕の方がきっと驚いていたのだろうけれども)。

「……望は僕にとって、他人でしかないよ」

 弾かれたように視線を素早くこちらに向けた気配がした。彼女の表情を僕は決して見ない。

「……うん、関係ないよね」

 低く低く、肺から吐き出されたその言葉は僕の耳元に微かに届いて、雨に流されアスファルトに溶け、固まった。

「関係ないけど」
「望の知り合いとか友人とかに、言えない事があったりするんだったら、聞くくらいはするから」

 それくらいなら、ちっぽけな僕でも出来るから。言外にその意思を込めて呟く。

「――。ありがとう、って言うのも、何か違うか」

 視線は僕から外されて、また空へと向けられたようだった。雨は少しずつ空に溶け込み、雲間から光が差そうとしている。空が晴れ渡れば、彼女との接点も消え去ってしまう気がした。たった数分で築き上げた、この小さな接点が。
 僕は知らず溜め息を零し、祈りにも似た言葉を口内で小さく(それはそれは本当に小さく、無意識に)、呟く。

 (どうかもう暫く、この雨が降り続きますように)