※削除されたグリム童話「ほうちょうをもった手」のリスペクト作品です。Wikipediaもろもろを参照しての作品なので、大体捏造しております。ご容赦ください。
乾いてひび割れたその土地に、一人少女は小さなナイフを持って地面に突き立てていました。少女はその荒地から泥炭を掘り起こそうとしているのです。大きめのバケツいっぱいの泥炭を持ち帰ろうと、少女は必死でナイフを突き立てていました。
少女には母親と、三人の兄がいました。母親は三人の兄ばかりを可愛がり、少女には見向きもしません。唯一少女を可愛がってくれていた父親は、数年前に家族を置いて独り何処かへ行ってしまいました。少女の家はとても貧しく、耐え切れなくなったのです。妻と四人の子供とを一人で支えるのはとても辛かったのでしょう。それが少女の災難の始まりだったのです。
少女は父親を恨みませんでした。恨むのなら、この母親の下へ生まれた自分自身だと思っていました。父親だって、好きでこの家を出ていったわけではないのです。きっとそうだと、少女は思い込んでいました。現実は彼女の理想など嘲笑うかのように酷いものだというのに。
とにもかくにも、少女の家には稼ぎが必要でした。母親に、三人の兄に、自分。五人分の生活費を稼がなければ、とうにこの地に生きてはいられなかったでしょう。少女の家は貧しくとも、都心に近い一等きれいな家でしたから。
少女はただひたすらに乾ききった大地にナイフを突きたて、掘り尽くされたであろう泥炭を掘り起こしていました。昨日も、一昨日も、その前の前の、前の日も。ずっと稼ぎになる泥炭を。父親が少ない稼ぎで買ってくれたきれいな服をどろどろに汚してまで、彼女は一人で黙々と作業をするのです。
母親と三人の兄はどうしているのか? ええ、ええ、気になりますね。
彼女たちは少女を酷く忌み嫌っていました。理由などそこにはありません。母親はそこそこに名の売れた名家から嫁いできた娘で、自分よりも価値の低いものをばかにしていないと気のすまない、そんな女なのです。少女の住むこの町、この時代では、代々男が家を継ぐのが習わしです。母親は「いらない子」として育てられ、売るも同然に少女の父親と結婚をし、子を成したのでした。そんな彼女は自分にされた仕打ちを、自分の娘にもしないと気がすまないのでした。私だけがこんな思いをするのでない。女は皆こうなのだ、とばかりに。そうして、母親は先に生まれた三人の男の子ばかりを可愛がりました。
きれいな洋服を着せました(少女は汚らしい服を着せられます)。毎日湯浴みをさせました(少女は良くて三日に一度です)。教師を雇う金はなくとも、母親が自ら勉強を教えました(少女は簡単な文字すら書けません)。いつか来るその日のために、母親は息子たちを可愛がり、出稼ぎをさせるのはいつも少女にだけでした。
古びて刃のかけたナイフを一本と、ブリキでできた大きめのバケツ。それだけを渡して、「さあ行ってきな」、と押し付け、そそくさと息子のもとへ戻るのです。少女はそのバケツとナイフを持って、毎日毎日出かけました。そのバケツをいっぱいにして帰らないと、母親にぶたれるのです。家に帰れはしないのです。必死に、もう切ることのできなくなったナイフで泥炭を掘り起こします。どろどろと黒いそれを少量ずつバケツに入れるその姿は、惨めそのものでした。
そんな少女の姿を一人――いや、一匹という表現が正しいでしょうか。荒地にでんと構えた大きな岩陰からひっそりと見守る影がありました。その影は世間では、妖魔とよばれています。酷く醜い姿をした、黒く長い腕と足を持ち、不思議な力を持ったもの。妖魔はずっとずっと、その少女の姿を見ていました。何日も何日も、ずぅっと前からです。
最初は、ほんの少しの興味でした。あんなやわい体をした少女が、一体どうしてこんなところで。何をしているんだろうか。必死で地面にナイフを突きたて、そこから黒いものを出している。黒いものの名前は知っている。確か、『デイタン』というのだった。人間の世界ではかなり価値のあるものらしい。
少しずつ少しずつ知識を付けていくうちに、妖魔はますます不思議に思います。だって泥炭を掘り起こす作業は、普通は男の人がやるものだと知ったからです。決して、まだ成長しきってもいない少女の仕事ではありません。
妖魔は、とても臆病でした。それゆえに同じ妖魔から仲間はずれにされ、ばかにされ、この荒地の岩陰にひっそりと生きているのです。人間のようにものを食べなくても、飲まなくっても生きていける妖魔ですから、ずっとずっとこの地に身を隠していたのでした。
そんな時にひょいと現れた不思議な少女を見て、妖魔はなんだかむず痒い気持ちになりました。ひょっとして、彼女もボクと同じなんじゃないだろうか。誰かに除け者にされているんじゃなかろうか。だからこんな、誰も来ないような荒地で一人、泥炭を掘っているんじゃないだろうか。その考えに至って三日、四日と過ぎ、とうとう一週間を迎えるその日、妖魔はありったけの勇気を振り絞って少女に声をかけることにしました。というのも、その日来た少女は、昨日見たときよりも明らかに左の頬が腫れていたのです。目尻には可哀想に、青い痣までできています。昨日とっていった泥炭は、確かにこの間よりも少なかったように思います。そのせいでしょうか。
話しかけるとなると、臆病な妖魔はものすごくどきどきしました。ないはずの心臓が音を立てて、今にも口元から出てきてしまうのではないのかと思うほどに。すう、はあ、と何度も呼吸を繰り返して、ようやっと声を絞り出しました。
「あ、あのう……」
少女は少し顔を上げ辺りを見回したものの、すぐにいつも通り作業へと戻ってしまいました。がん、がん、と鈍いナイフと地面のぶつかる音がします。どうやら風の音か何かと勘違いされてしまったようですね。
妖魔はもう一度、すう、はあ。すう、はあ、と息を整えると、んんっと一度喉を鳴らしてから、先程よりも大きな声で、少女に聞こえるように声を出しました。
「あ、あのう。お嬢さん!」
「きゃあ!」
「わあ!」
今度は大きく声を出しすぎてしまったようですね。長らく会話をしていないと、どのくらいの声が丁度いいのか分からなくなるようです。少女は妖魔の声にびっくりして、妖魔はびっくりした少女の声にびっくりしてしましました。
少女は不安そうに辺りをきょろきょろと見つめます。今度は風か何かだとは思われていませんよ。けれど、とても不気味な妖魔の声に少し怯えているようです。なんてったって、しゃがれた爺のような、それでいて地の底から響くような。かと思えば少年のように澄んだような声で呼びかけられたのだから、怯えても仕方はないでしょう。今この荒地にいるのは少女一人だけですし、お嬢さん、というのも自分のことを指しているのだとは分かります。けれど、誰が一体どこで? いまここにいるのは自分ひとりだけなのに。
「あのう、お嬢さん。聞こえていますか?」
ここで再び、妖魔から声がかかりました。一度話しかけたことに成功して、少し自信が湧いたようですね。
少女は自分に話しかけているのが妖魔だとは露知らず、それでも訝しげに辺りを見回しながら「ええ、聞こえるわ」と答えました。
「ねえ、あなたはだあれ? どこにいるの?」
少女の問い掛けに、今度は妖魔が黙ってしまいます。だってここで自分の正体を明かしては、ますます彼女を怖がらせてしまいます。そうしたら、毎日毎日ここで彼女を見ることも出来なくなってしまう。それは嫌だ、となぜか思いました。
「ボクは、そのぅ、なんて言ったらいいのか……。ともかく、岩の近くへ来てもらえませんか。お嬢さんと、お話がしてみたくて……」
そう言われても、少女は困ってしまいます。だって、誰ともしれない人に岩の近くへ来て欲しいだなんて言われて、おかしいと思わないわけはありません。少女は勉強こそ出来ませんでしたが、人一倍そういった危険かそうでないかの違いの見極めは出来る子でした。
なんとか断る口実はないか。その時、少女の目に入ったのはまだ半分も泥炭の入っていないブリキのバケツでした。
「ごめんなさい。どなたかは分からないけれど、わたし、お仕事をしなければいけないの。このバケツ一杯に泥炭を掘らなければ、おうちに帰れないのよ」
そうだ、なんてことだ! 妖魔は少女のその言葉に雷を打たれたようでした。毎日毎日見てきた自分が、一番知っているじゃないか。彼女が泥炭を掘ってもって帰らなければならないということ。その為には、少しも休んでいる暇などないということを!
そのとき、妖魔の頭にひどく素晴らしい提案が閃きました。そんな自分に少し興奮しながら、妖魔はこう誘います。
「じゃあ、じゃあ。ボクがほうちょうを貸してあげます! すっぱりさっぱり、なんでも切れる、素晴らしいほうちょうです! このほうちょうを使えば、きっともっと楽に作業を終えることができますよ!」
妖魔はどうだ! と言わんばかりに興奮して少女に話しかけます。少女はなんでも切れる、と言われて少し興味は沸いたものの、やはりそんなに信用はできません。だって明らかに、声が人間のそれではないのですから。
でも、と渋る少女を見て、妖魔はしまったと思いました。あまりにも興奮して話してしまったせいで、少女をまた怯えさせてしまったかもしれない。ああ、ああ、どうしよう!
「ボクは、ボクはね。……本当にお嬢さんとお話がしたいだけなんです。ボク、ずっと人とお話をしていなかったから。だからだから、ほんの少しでいいんです。どうか岩の近くへ来てくれませんか?」
途端に勢いをなくしたその声に、少女が今まで抱いていた不信感はふっとどこかへ行ってしまいました。寂しそうな、悲しそうなその声を本物だと思ったのです。作業の手を止めて、少女は岩の近くへ行くことにしました。だって少女も、父親がいなくなってからまともなお話を誰かとしたことがなく寂しかったのです。
恐る恐る、ナイフとバケツを置いて大きな岩の近くへ近づくと、その大きな岩をこんこん、と二回叩きました。
「来たわ。ここでいいの? 岩の裏へ行かなくていい?」
そう言って少女が岩の裏を覗き込もうとすると、妖魔は慌ててこう言いました。
「いい、いい! そこでいいよ! ボク、寂しいけど、お話したいけど、誰かと目を合わせるのが怖いんだ」
「そう……? それじゃあ、ここにいるわね」
少女は不思議そうにしながらも大人しく岩の前に立ちました。そのことに安心して、妖魔はほっと息をつきます。
「ああ、ありがとう。助かるよ。……そうだ。ねえ、お嬢さん。キミのお名前はなんていうの?」
ずっとずっと見守り続けていたけれど、そういえば彼女の名前を妖魔は知らないのでした。思えば声を聞いたのだって今日が初めてです。いつだって彼女は黙々と仕事をこなしていましたから。
少女もそうね、お話するなら名前を知らなくちゃね、と思いました。だって、いつまでも「お嬢さん」呼びは慣れませんもの。
「わたし、アデーレっていうの。あなたは?」
「ボク? ……ボクの名前は、名前はね。ううん……」
さあ、どうしたことでしょう。妖魔は中々名乗ろうとしません。
「ひょっとして、名前がないの?」
「いいや。いいや、あるんだよ。ただ忘れてしまったんだ。ボクはずっとずぅっと、それこそ何十年もお話をする相手がいなかったから、どうやら名前を忘れてしまったんだ」
まあ、なんてことでしょう! 少女――アデーレはびっくりしました。何十年も人と話をしないだなんて、一体この人はどういった人なんだろう。それも、ずっと岩の裏に隠れて、です。人間ではないのでしょうか? いいえ、声がもうとっくに人間でないことはわかっているのですけれども。
ううん、ううんと唸り続ける岩の裏の彼に、アデーレは名案とばかりにこう話しかけてみました。
「ねえ、良かったら私が新しい名前をあげましょうか? ずっと思い悩んでいても仕方がないもの」
「本当かい?」
まさかそんな申し出があるとは思わなかった妖魔は、びっくりするのと同時にとても嬉しく思いました。正直思い出したとしても、蔑まれ続けた名前を口にするのは、やっぱり憚られるのです。
「ええ、いいわ。そうね……。ハーロルト、なんてどうかしら?」
それは、少女が慕っていた父親の名前でした。びっくりしたり、嬉しそうにしたり、寂しそうにしたり。その声から感じられる豊かな感情は、幼い頃の美しい思い出を連想させ、同時に少女に親しみを持たせたのです。それに学のないアデーレは、自分の母親と三人の兄の名前、それに今はいない父親の名前しか知りませんでした。
妖魔はそんなこと知りもしませんでしたが、それでもとても嬉しそうに、何度も何度も名前を繰り返しました。
「ハーロルト。ハーロルト。ハーロルト。……ありがとう! ボク、ハーロルトって言うんだ。よろしくね」
「ええ、よろしく!」
少女は何年かぶりに笑顔を見せました。だってあまりにも嬉しそうにその名前を連呼するものだから。そして、その名前が少女にとって特別なものだったから。今しがたあげた名前で自己紹介をする彼を、素敵だと思ったから。
最初の不信感や怯えなどどこかへ行って、二人は暫くの間意味もなく互いの名前を呼び合っては笑い合いました。
そうして満足いくまで名前を呼びあったあと、アデーレは声を聞いた時からずっとずっと気になっていたことを、そうっと聞いてみることにしました。
「ねえ、もし本当にそうだったとしても、怖がったりしないから教えてくれないかしら? ――ハーロルトは、妖魔さんなの?」
古い古い、言い伝えの一種でした。少女が毎日通っているこの荒地の岩には、むかしから妖魔が住んでいて、人を襲っては食べてしまうと。けれど、どうも彼の声を聞けば聞くほど、そんなものには思えないのです。だからもしそうだったとしても、彼を彼として受け入れようと、ここではっきりさせておこうと思ったのでした。
一方、ハーロルトの方は気が気ではありません。だってこんなにもあっさりと、こんなにも早く、自分の正体がばれてしまうだなんて思いもしなかったからです。彼は自分の声が人間と違うだなんて微塵も思っておらず、彼女が怯えたのは自分が大きな声をだしたからだと思っていましたし、彼女が不審がっていたのも当然のことだと思っていたからです。
ああ、こんなときどんな風に答えればいいんだろう。彼女は怖がらないと言っているけれど、それは本当なんだろうか? ハーロルトは今までいろんな土地で、人が人を騙すところを見てきました。ひょっとして彼女もそうなんじゃないだろうか。そう、疑心暗鬼になったのです。
いやいやでも。自分に名前をくれたアデーレが、そんな人間なわけないじゃないか。だって妖魔かも知れないと思ったら、大抵の人間は逃げていってしまう。自分が他の仲間だった人達と一緒に行動していた時からそうだった。「あいつは妖魔だ」と言われるだけで、本当は人間なのに虐げられている人も、彼は見たことがあります。
なら、なら。彼女は安全じゃないだろうか。本当に、言っても怖がらないだろうか。ハーロルトはもう一度、彼女に声をかけた時のように勇気を振り絞りました。
「……本当の本当に、本当のことを言っても怖がらない? 逃げない? また今度、ボクとお話してくれる?」
少女が笑ってもちろんよ、というと、意を決して自分が妖魔だということを伝えました。
「そうだよ。ボクはこの岩陰に何十年も前から隠れて住んでいる妖魔なんだ」
「ふふ。やっぱり! やっぱり、妖魔さんだったのね」
意を決して話したはずの正体を聞いてくすくすと笑うアデーレに、ハーロルトは一気に緊張を解いてしまいました。
「ね、ねえアデーレ。どうしてそんなに笑っているの? ボクのこと怖くない?」
「だいじょうぶよ。最初に言ったでしょ、怖がらないって。だってあなた、すごく素直なんだもの」
本当にその通りでした。彼は反応がとても素直で、声で話し方で、すぐに分かってしまうのです。それに、とアデーレは続けます。
「妖魔さんのお友達になれるなんて、思ってもみなかった。わたし、人間のお友達がいないの。だからね、例え妖魔さんだったとしても、ハーロルトとお友達になれて嬉しいわ」
友達、といわれてびっくりしました。だって彼にも、同じ妖魔の友達はいないのですから。
「ボクも……。ボクも、妖魔の友達がいないんだ。だから、アデーレに出会えて、その、友達になれて、とっても嬉しいよ!」
「あら、本当? ありがとう。……でも、姿は見せてくれないのね?」
「そ、それは……」
ハーロルトが言いよどむと、またくすりと笑ってアデーレは言葉を遮りました。
「大丈夫よ、覗いたりしないから。ハーロルトの嫌なことはしないわ、わたし」
その言葉にまたしてもおおきく息をつくと、ありがとうと一言だけ言いました。
やがてふう、と少女がため息をつくと、後ろを振り返りました。視線の先にはまだまだ一杯には程遠い量しか入っていないバケツと、くたびれたナイフが置いてあります。
「あなたとのお話も楽しいけれど……。でも、わたしお仕事をしなくちゃ。おうちに帰らないと、ご飯も食べられないもの」
大事な大事な働き手ですから、おうちに帰れば食事は出されます。パンと水という、まるで奴隷のような量の食事ではありますけれど、無いよりははるかにましだとアデーレは思うのです。
彼女のその言葉を聞いて、ああ、そうだとハーロルトは思い出しました。
「そうだ、アデーレ。ボクのほうちょうを貸してあげるよ」
「え?」
「ほら、最初に言っていただろう? すっぱりさっぱり、なんでも切れるすばらしいほうちょうをキミに貸してあげる、って」
そういえば言っていましたね、なんでも切れるほうちょう。その言葉に一度、アデーレは惹かれています。
「そんなもの、本当にあるの?」
もちろん、アデーレはびっくりしました。あんなものは自分と会話をするためだけの口実だと思っていたからです。
「もちろんあるさ。……ほら、これさ」
岩の裏から、にょっきと黒く細長い腕が生えてきました。アデーレはちょっとびっくりしたものの、声は上げませんでした。そんなことをしたら、今度から本当にハーロルトは姿を一切現してくれないような気がしたからです。
黒く細い腕の先、手のひらの形をしたその中には、きらきらと光るいかにも新品といった感じのほうちょうが握られていました。
「こんなもの、わたしが使っていいの? ハーロルトのものでしょう?」
「いいんだよ、アデーレ。これはボクには必要ないものだから」
さあ、と黒い腕は軽くほうちょうを振ってみせます。軽く揺らしただけだというのに空気を切り裂く音がするそのほうちょうは、なるほど、よく切れそうです。
「このほうちょうを使えば、もっともっと奥にある泥炭を持って帰ることができるよ。一度、地面に突き刺してごらん」
アデーレは恐る恐るといったようにほうちょうを受け取ると、ありがとうと言葉を残して元の作業場へ戻って行きました。
ハーロルトの言うとおり、ほうちょうを地面に突き刺してみます。すると、どうでしょう! あんなに何度も突き刺さなかれば姿を見ることすらできなかった泥炭が、さっくりと刺さったほうちょうを抜くとみるみるうちに姿を現したではないですか!
「すごい、すごい! 本当になんでも切れるほうちょうなのね!」
これなら、いままでよりももっと簡単に泥炭を持って帰ることができるわ、と少女は喜びました。さっそく現れた泥炭をバケツにいれていくと、さあどうでしょう。もう一杯になってしまったではないですか!
ほうちょうとバケツ、それにナイフを持ち岩の近くへ戻ると、アデーレは岩をこんこん、と二度叩きました。
「ハーロルト、ハーロルト。ありがとう、こんなすばらしいほうちょうを貸してくれて。……でもね、これはあなたに返すわ」
こっそりと聞き耳を立てていた妖魔は、アデーレのその言葉にひどくびっくりしました。
「どうして? そのほうちょうがあれば、毎日毎日、たくさんの量の泥炭を持って帰れるんだよ?」
「そうね、とっても楽にお仕事が終わるわ。でも、このほうちょうが見つかったら、お母様に取られてしまう気がするの」
少女は母親が自分に対して酷い仕打ちをしているのを自覚していました。こんなほうちょうが見つかったら、きっと取り上げられてしまします。そうして今日よりももっと大きなバケツといつものナイフを渡されて、「さあ掘りにいっておいで!」と言われるだろうと正しく予想したのです。
「アデーレは、お母さんに苛められているの?」
「いじめ……? そうね、ひどいことをされているとは思うわ。だってお兄様たちはきれいな服を着て、勉強をして、わたしよりもっと美味しい食事をしているんですもの」
アデーレには「いじめ」という言葉がわかりませんでした。それでも、自分の家族にひどいことをされていると伝えれば、妖魔は大人しく貸したほうちょうをうけとったのでした。
「本当はキミにプレゼントしたいんだけど、それじゃあボクが預かっておくね。もしまた明日来るようなら、この岩を二回叩いてボクを呼んで。そうしたら、またほうちょうを渡すから」
そうしてお仕事を終えたら、一緒にお話しよう。ハーロルトは、初めからそうだったように話し相手が欲しかったのです。だからアデーレの仕事が早く終わるように協力してあげたかったのです。
アデーレはその申し出をひどく喜びました。きっと明日も明後日も、その次の次の、次の日も。泥炭を掘り起こしにここへくるだろうと思っていたからです。
「本当に? いいの? ありがとう、ハーロルト!」
少女は心優しい妖魔の友人に抱きつきたい気分でした。けれど大きな岩がある限り、それは叶いません。だからせめてもと、何度も何度もお礼をいいました。
お礼を言われるなんて何十年、いいえ、何百年ぶりでしょう。ハーロルトは嬉しくって、でも照れくさくって。無言のままにょっきと黒く長い腕を岩の裏から差し出しました。少女はその手にそっとほうちょうを渡すと、それから日が暮れ、いつも帰る時間帯になるまで、ずっとずっと他愛ないことを彼と話していたのでした。