※結末は完全に捏造です。
アマーリアは不自然に思いました。あまりにも少ない量の泥炭をとってきた娘の頬を殴ったその次の日から、彼女は今までどおり――いいえ、いままでよりも多くの泥炭を持ち帰ってくるようになったからです。最初はぶったのが効いて、もっともっと必死になったのか、いい気味だと思っていたのですが、それにしては様子がおかしいのです。アデーレの顔に疲労の色をみつけるどころか、むしろ生き生きとしているではないですか。
これはおかしい、と思いました。これは今まで生きてきたアマーリアの、女としての直感です。そこで彼女は、一つ試してみることにしました。
「アデーレ。ちょっとおいで」
いつものように、娘を呼びつけます。もちろん、今日も泥炭を掘り起こしに行かせるつもりです。けれど今日、ひとつ違うのは、いつも娘に渡していたブリキでできたバケツのその大きさです。
「あんたは最近よく働くねぇ。そろそろあのバケツじゃあ物足りなくなってきただろぅ? このバケツ一杯に泥炭を持って帰っておいで。一杯になるまで、帰ってくるんじゃないよ!」
いままでの倍はあるんじゃないかというおおきさのバケツに古びたナイフをがらんと入れて、いつものように娘に押し付けました。びっくりしたアデーレはもちろん、こんなのは無理だと反論します。
「お母様! いくら何でも、この量は無理です!わたし、死んでしまいます!」
「やれないじゃあないんだよ、やるんだよこのグズが!」
反論してすぐさま、アマーリアの雷が落ちました。
「おまえは泥炭を取ってくる才能があるようだから、わざわざ大きなバケツを用意してやったんだよ。むしろあたしに感謝してほしいねぇ。何にもできないあんたに、大事な大事な仕事を与えてやってるんだからねぇ!」
わかったらさっさとお行き! と言って、今にも泣きそうな娘を家から蹴り出しました。蹴った足の靴を雑巾で綺麗に拭いてから、アマーリアは愛しい息子たちの元へ戻ります。
アデーレは今にも泣き出してしまいと思いました。けれどここで泣き喚いたところで、なんの解決にもならないことは彼女が一番良く知っています。彼女の母親は、アデーレにいっとう厳しく当たるのです。帰ってくるなということは、この大きなバケツをいっぱいにするまで家に入れてもらえないということです。
元々はきれいな春色をしていた洋服はすっかり泥炭にまみれ、黒い斑点模様をあちこちに残していましたが、そのなかでもきれいな部分で目元を拭って、大きなバケツを持ってまた、アデーレはあの荒地へと向かうのでした。
荒地に到着し岩を二回叩くと、今日も陽気にハーロルトはアデーレを迎えてくれました。けれど今日は、それに笑顔で応える元気がありません。不思議に思った妖魔は、どうかしたのかと訪ねます。
「アデーレ、アデーレ。一体どうしたの? なにかまた、ひどいことをされたの?」
「ハーロルト……」
アデーレは、いっぱいいっぱいでした。悲しいとも悔しとも憎いともつかない思いで、この荒地へとやってきたのです。ハーロルトの名前を呟いたきり、岩の前へ座り込んでさめざめと泣き始めました。
「お母様が、いままでよりもずっと大きなバケツに泥炭を取ってこい、って。いっぱいになるまでおうちに帰れないの!」
母親がアデーレにしてきたことを今まで散々聞いていた妖魔は、それでも今回はひどすぎやあしないかと思いました。こんな小さな女の子一人に、いつもより大きなバケツ一杯に泥炭を取ってこいだなんて!
バケツいっぱいに入れた泥炭を、休み休みとは言えど頑張って家まで運んでいたアデーレに、さらに重いものをもって帰ってこさせようとするのか! ハーロルトは怒り狂ってしまいそうになりましたが、自分が怒ったところで何もできないのだと気づき、自分の無力さに今度は腹を立てました。
何度も何度も合って話してを繰り返すうちに、二人は人間だとか妖魔だとか、そういったものを越えてお互いに好きになってしまっていたのです。だからアデーレはハーロルトに自分の全てを話しますし、ハーロルトはアデーレの全てを受け入れました。ハーロルトは相変わらず姿を見せてはくれませんでしたが、アデーレはそれでも構いませんでした。どんなに醜い妖魔だったとしても、心から彼を愛していると強く思っていたからです。
アデーレは不安を押し流すように泣き続け、やがて落ち着くといつものように作業を始めると言い出しました。
「結局は、わたしが泥炭をもって帰らないといけないの。でなければ私は飢えて死んでしまうし、お風呂に入ることだってできない。それに、どれだけひどいことをされたって、お母様はわたしのお母様だもの」
少女は心の底から母親を嫌うことはできませんでした。どんなにひどい仕打ちをされたって、彼女の体内に宿り、彼女が腹を痛めて産んでくれたのです。そうでなければハーロルトにも出会えなかった。そう思うと、感謝をしなければならない部分も、確かにあると思っているのです。
ハーロルトは、そんな健気でどうしようもない少女が大好きでした。愛していました。こんなに心優しく、きれいな女の子は他にはいないと思っていたからです。自分は何も出来なくても、けれどそれでも、精一杯彼女にしてやれることをやろうと思ったのでした。忌み嫌われてきた妖魔の力は、きっとアデーレのためにあるのだと信じて。
「分かったよ、アデーレ。いつも通り、ほうちょうを貸してあげる。それを使えば、大きなバケツだってすぐに一杯になるさ。……それと、今日はもう一つ、ボクの力を貸してあげる」
「もうひとつの力……?」
「うん。……ボクは妖魔の中でも弱いから、ほんの少ししかできないんだけど……。泥炭が一杯入ったバケツの重さを、少しだけ軽くしてあげる」
本当のことをいうと、泥炭の入ったバケツの重さを軽くするのではありません。少女自身に、自分の力を少し分け与えるのです。本当はいけないことだと思いました。だって彼女に力を分けるということは、彼女を妖魔の仲間にしてしまうということでもあるからです。ですが、もし彼女がそれを受け入れてくれるなら、この力を使おうと思い提案しました。
アデーレはその提案に驚きましたが、それと同時に喜びました。いつもより思いバケツを引きずって帰るとしたら、一体何日かかるでしょう。今までだって丸一日かかっていたのです。ひょっとしたら、三日、四日掛かってしまうかもしれません。それが少しでも楽になるのなら、嬉しいことに違いありませんでした。
「本当に? ありがとう、ハーロルト! あなたにはいつも、助けてもらってばかりね」
「ううん、いいんだよアデーレ。ボクはキミとお話ができるだけで、とってもとっても嬉しいんだから。お礼をいうのはボクの方さ!」
いつもの笑顔に戻ったアデーレはいつものようにほうちょうを受け取り、必死に地面に突き刺しては泥炭を掘り起こしました。するとハーロルトが言ったとおり、すぐにバケツは一杯になりました。けれど今日は、残った時間でお話をすることはできません。だって、何日かかるか分からないんですもの。
こんこん、と二回岩を叩いてほうちょうを返すと、アデーレは素直にそのことを伝えました。するとハーロルトも分かっていたようで、すぐさまここから出ておうちへ帰ろうということになったのです。
「アデーレ、アデーレ。力を貸すから、少しだけ目を閉じていてくれないかい? 力を使うには、君の前に現れなきゃいけないんだ」
「ハーロルト……。うん、わかったわ。たとえあなたがどんなに醜い姿をしていても私はあなたを愛してるもの。力を、貸してちょうだいね?」
どれだけ話しても、どれだけお互いに心を許しあっても決して姿を見せてはくれない妖魔に寂しさを覚えましたが、少女は一番最初に出会ったとき、約束していたのです。「彼の嫌がることはしない」と。だから大人しく目を閉じました。
ふんわりと、なにか暖かな感覚が少女を包みます。暫くすると、いいよ、と声がかかり目を開けました。やっぱりそこには、妖魔の姿はありません。
それでもにこりと笑いありがとうとお礼を言うと、そばにあった大きなバケツをよいしょと持ち上げました。
「わあ……。すごい!」
思っていたよりも簡単に持ち上がったバケツに、少女は感嘆の声を上げました。だって、いままで持って帰っていたバケツとほとんど同じくらいの重さになっていたんですもの!
再度、ありがとうと元気よくお礼を言うと、よいせよいせとバケツを運び、アデーレはおうちへと帰って行きました。
少女がおうちへ帰って一番に目をひん剥いたのは、もちろんアデーレの母親であるアマーリアです。無理難題を押し付けたつもりでした。今まででも一日中ずっとかかっていた泥炭を、いままでよりも大きなバケツにいれて持ち帰るだなんて、一週間は帰ってこないだろうという算段で持ち出したのです。少女の家は今や、アデーレが毎日持ち帰る泥炭のおかげで少し余裕ができたほどですから、そのぐらい彼女が家を空けていた方が何かと都合が良かったのです。それなのに。それなのにです! なんとたった一日で、いままでよりも多い量の泥炭を持ち帰ってきたではありませんか!
「ただいま帰りました、お母様」
「アデーレ、あんた……」
アマーリアはあんぐりと口を開いたまま、暫く二の句が告げませんでした。やがて我に返ると、彼女がずるをして帰ってきたのではないのかと疑い、彼女が持っていたバケツをひったくりました。けれどそれは確かに底からてっぺんまで泥炭がきっちりと入っており、ひったくったその場でちいさく悲鳴を上げ、アマーリアはすぐにバケツを地面へ落としてしまいました。
そうして彼女は、これはいよいよ本当におかしいと思いました。こんな量の、こんな重さの泥炭を一日でとってくるなんて、大の大人の男でも難しいはずです。これにはなにかからくりがある。そう確信した彼女は、次の日、アデーレの後をこっそりとつけていくことに決めました。
その朝、昨日と同じ大きさのバケツにぼろぼろのナイフを入れて昨日と同じように渡すと、娘は昨日と違い素直に言うことを聞きました。――やはりおかしい。アマーリアは三人の息子を『課外実習』と称して引き連れ、こっそりとアデーレの後をつけていきました。三人の息子たちはアマーリアに溺愛され続けたからか、すっかり彼女の言うことをなんでも聞くようになっていました。
こっそりと後をつけながら、遠い場所にある荒地へ向かいます。積み上げられた木材の陰に隠れて、少女の行動を見守ります。するとどうでしょう。アデーレが二回、岩を叩くと黒く細い腕がにゅっと伸びて、ほうちょうを差し出したではありませんか! そのほうちょうをさも当たり前のように受け取ったその行方をさらに見ていると、なんと地面をさっくりと刺しただけで乾いた土地から泥炭が出てきたのです!
こんなからくりがあったのか! ――アマーリアは恐怖と共に怒りを覚えました。自分の与えたナイフではなく(恐らくですが)妖魔の与えたほうちょうを使って泥炭を掘り起こしていただなんて。これならば、簡単に泥炭を掘り起こし毎日帰ってくることも、昨日の膨大な量を持ち帰ってくることもできると納得しました。そうしてアマーリアは、とんでもないことを考えついたのです。
「愛しい愛しい息子たち。あのクズを捉えてきな。もちろん、騒いだりできないように口をしっかりと塞ぐんだよ」
「わかったよ、ママ」
「ねえ、ねえ、そしたらおやつ、豪華になる?」
「あいつ殴ってもいいの?」
「ええ。殴っても蹴っても、なんなら死なない程度に首を絞めたって構わないわ。騒がなければね。ママの言う通りにしてくれたら、今日のおやつはおいしいケーキにしましょうね」
愛する母親のその言葉に一気にやる気を燃やした息子たちは、足音を立てないようにして泥炭を掘り起こしているアデーレの背後に近づきました。そうして驚くことに素早く、それでいて正確にアデーレの口を塞ぎ、両手を捉え、腹を蹴って抵抗ができないようにしたのです。それでもなお暴れようとすると、地面に向かって頭を何度も何度も殴りました。
そうして意識が朦朧としている間に母親はアデーレに近づき、その手に持っていたほうちょうを奪い取りました。そうして一歩、一歩と岩の近くへ向かいます。
嫌な予感がしました。はっきりとしない意識の中、それでもアデーレは心の中でなんどもなんども、ハーロルトに逃げてくれと願いました。けれど声を出すことのできないアデーレに、してやれることは一つとしてなかったのです。
やがてアマーリアが岩の前に立つと、アデーレがやったように二回、岩を叩きます。
「アデーレ! 今日はとっても早かったんだね。もうお仕事は終わったの?」
そう言いながらいつものようにほうちょうを受け取ろうとハーロルトが手を伸ばしたときでした。
その行為が、アデーレにはとても恐ろしく映りました。そしてゆっくりと、ゆっくりと、じりじりと長い時間をかけたかのように思われました。アマーリアの手にしたほうちょうが、ハーロルトの腕を。あの黒く細長い、誰よりも優しいハーロルトの腕を縦に裂いたのです。
「うわぁああああああ!!!」
「あっははははは!! あはっ、あっははああ!!」
見知らぬ間抜けな妖魔の辺りを震わせるかのような絶叫に対し、アマーリアはそれよりも大きな声で肩を震わせて大きく嗤いました。そうして、ようやっと体が解放されたアデーレは大きく叫んだのです。
「ハーロルト! ハーロルトッ!!」
必死に零される懐かしい名前を気にもとめずに、アマーリアは笑い転げます。そうして堂々と、憎々しげに、そして高らかに妖魔に言い放ちました。
「そうかいそうかい、あんたかい! うちの稼ぐしか能のないクズに道具を貸し与えていたのは! おかげで助かったよォ、家計はかなり潤った。余裕が出たくらいだ。でもなあ、勝手に手を出されちゃ困るんだよ!! 女は使い捨ての道具なんだ! それを骨の髄まで叩き込んでる途中だったってのに、一体なんてことしてくれるんだい! 妖魔なら妖魔らしく、醜いその姿で一生を過ごしな、化物ッ!!」
「妖魔だ、妖魔だ!」
「醜い妖魔だ! 怖い妖魔だ!」
「お前なんかどっかいけ! 二度と関わんな!!」
彼らにそんなことを言う権利があったのでしょうか? きっとそんなことはないという人が多いのでしょうね。けれどこの時代は、異端や異質なものにおいて差別が酷い時代でした。もし家の誰か一人でも妖魔なんてものと関係を持っていたと知れたら、今の暮らしは絶対に保証されません。辺境の地へと飛ばされ、それこそボロ雑巾のような生活しか出来なくなってしまうのです。母親も三人の兄も、それが嫌で嫌でたまらなく、アデーレから彼を遠ざけ、もっと言うと消してしまおうと考えたのです。
「ああ、ああぁ……!」
ハーロルトは、泣いているようでした。声が震えていました。腕を切ったのはアデーレの母親だと分かっていても、自分を罵ったのがその母親に可愛がられている三人の兄だと分かっていても、遠い遠い昔に蔑まれ続けた記憶が蘇り、その場にいられなくなってしまったのです。
それでもせめて、愛しいアデーレにその姿を見て欲しくはなくて。全身から黒い靄を出して姿を隠したまま、遠い空へと去って行きました。
「ハーロルト! 待って、違うのよ。ハーロルト!」
ああ去っていった! やった! 妖魔を追い出した!
その狂気の笑い声が木霊する中で、一際悲愴な声で彼の名前をアデーレは叫び続けました。やがて厭らしい笑みを貼り付けたまま母親がアデーレの傍にやってくると、その左頬をこれでもかと強い力でぶちました。
「騒ぐんじゃないよ、この能無しのグズが! たかが道具のくせに楽をしやがって……。お前に楽をする権利なんてないんだよ! いいからとっとと死ぬまで働きな! ほぉら、丁度いい道具も手に入ったんだからねえ!!」
そう言いながら少女の目の前に、妖魔のほうちょうをがらんと転がしました。母親も兄たちも、けらけらと笑い続けています。地面に伏したアデーレを見下して、けらけらと、ずっと笑い転げています。いつまでもそうしているアデーレに見飽きたのか、時折兄の誰かが背中を思いっきり蹴っては早く立てと急かしました。
やがてその笑い声が収まりかけた頃、ようやっとアデーレは体を起こしました。その目は虚ろで、何かを見ているようで何も見ていませんでした。その場に座り込み、傍に落ちているほうちょうを手に取ります。そしてのそのそと立ち上がると、ふと、彼女の目の前に立っていた母親の首に一本の線が走りました。
「何が化物よ」
少女の声は低く静かで、注意深く聞かなければ恐らく聞こえなかったでしょう。しかしその一瞬前に聞こえた風の音に、周りの笑い声はぴたりと止んでいました。
「ハーロルトが何をしたっていうの? 化物ってなに? 彼はわたしを助けてくれた。ぼろぼろのナイフで必死にお仕事をしてるわたしを助けてくれた」
すう、っと赤い線が、母親の首に現れます。
「その優しい人の腕を切ったのはだれ?」
アマーリアの目がいつかの日のように見開かれました。三人の兄たちも、その場から動けずにいます。
「おまえらのほうが、よっぽど化物じゃないの!!」
とうとうアマーリアの首はすっぱりと地面に落ちてしまいました。ほんの少量の血を残して、首が落ちたあと、ゆっくりと体が倒れていきます。「すっぱりさっぱり、なんでも切れるほうちょう」の切れ味がどれほどのものか、よくわかりますね。
「返しなさいよ! ハーロルトの腕を! いつもわたしを助けてくれたあのやさしい手を!! 返してよ!!」
事切れた母親には目もくれず、今度は兄弟へと目を走らせます。全員見事に怯えきっていますが、いつもばかにしていた妹のあまりの豹変ぶりについていけず、逃げるどころか声を上げることさえできません。
「――っ、ひ」
だれかが、絞り上げられたような悲鳴を漏らしました。
「うわあああ!!」
「待って! 待ってよ!」
「ディルク! マルセル! 置いていくな!!」
三人はもう、ただの哀れな子供でした。さっきまで見下し、笑っていた妹がひとたび包丁を掲げれば、彼らの腕は、足は、腹は、簡単に切れてしまったのです。
ろくに逃げることも抵抗することもできなかった母親と兄弟が事切れると、そこから狂ったようにアデーレは彼らの左腕をほうちょうで何度も何度も、何度も何度も何度も突き刺して、切り裂いて、切断して、叫び続けました。
「返して……返して……。ハーロルトは何もしてないじゃない……。わたしの大事な友達だったのに……。大切な人だったのに! 返してよ! 返せ、返せ返せ!!」
涙を静かにながし続けながらほうちょうで肉を切り裂き続け、やがて少女の両腕が真っ赤に染まった頃。沈みゆく太陽をぼうと見つめながら、彼女はその場に座り込んでいました。
ずっとずっと、時間は過ぎていきます。夜が明け、辺りが仄かに明るくなってきた頃、アデーレはようやっと思いその腰を上げました。そうして切断されたハーロルトの腕のそばに移動しその腕に手を伸ばすと、はたと気付きました。
真っ黒な、細い腕が、動いている。
それは紛れもなく乾いた血で赤茶けた自身の腕が、辺りの暗さで黒く見えただけのものでした。けれど、なによりも誰よりも大好きだった彼の腕がそこにあると錯覚したアデーレは、右手にずっと握り締めていた包丁を、自身の腕に宛てがいます。
するとどうでしょう。一陣の、暖かい、いつかの風が辺りに吹きました。
「アデーレ! 待って、駄目だよアデーレ!」
懐かしい声がしました。愛しい人の声です。その声が聞こえた方向をみやった時には、アデーレの視界は黒一色に塗りつぶされていました。人とは違う、ひんやりとした、けれど心地よい温度が彼女を包みます。
「アデーレ。良かった。良かった、アデーレ……!」
ずっと前に聞いたような、震えた声でした。
「ハーロルト……?」
「うん。うん、ボクだよ。アデーレ」
ごめんね、ごめんねとすすり泣く声がすぐ耳元で聞こえます。ほうちょうを置いて右手で彼の右腕があったと思われる場所に手をやるも何もない感覚に、ぼんやりとしていたアデーレははっと我にかえりました。
「ハーロルトッ……! ごめんなさい、ごめんなさいハーロルト! わたし、わたしあなたの手を、やさしい手を……」
今度はアデーレが謝る番でした。何度も何度もうわ言のようにごめんなさいと口にするアデーレに、うん、うんと相槌を打ちながらなだめていきます。やがて静かな泣き声だけになったとき、ハーロルトは静かに切り出しました。
「……わかってるよ。キミがボクの腕を切ったわけじゃない。ただの事故さ。キミのお母さんがボクの腕を切ってしまった。キミは何も悪くないよ」
「でもっ。でも……!」
「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。ボクはこのくらいじゃ死なないもの。だってボクは妖魔だよ? 食事も水も必要ないし、この体ひとつで生きていける種族なんだ。アデーレが謝る必要なんて、どこにもないよ」
「ハーロルト……。……ねえ、ハーロルト。お願いがあるの。厚かましいかもしれないけれど、聞いてくれる?」
「お願い?」
ようやっと泣き止んだ少女に安堵していると今度はお願いときて、なんだろうと尋ねると、アデーレはハーロルトにとってとんでもないことをお願いしてきたのです。
「あなたの顔が見たいわ」
ハーロルトの体が、こわばりました。醜いこの顔を、きれいなこの女の子に見せるなんてことは、どれだけ経ったって出来なかったことです。彼は咄嗟に断ろうとしました。
「お願い、あなたの顔が見たいの……。あなたがどんなに醜くったって、あなたが優しいのは誰よりもわたし、知ってるもの。だからお願い、あなたの顔が見たい……!」
涙混じりの声に、断ることはできませんでした。ハーロルトはおそるおそる、ゆっくりと抱きしめていたその腕を緩めていきます。アデーレも、それに合わせてゆっくりと顔を上げていきました。
細い骨格の骨に張り付いた皮に、ぼこりぼこりと、不自然に隆起した顔。両の目はぎょろりと額よりも前に飛び出し、人でいう耳の部分からはぐねぐねと非対称にねじまがった角が生えていました。左側は焼け爛れたかのようにどろどろとして赤黒く、右側はびくびくと隆起した部分が時折脈打っています。
ハーロルトは、分かりづらくも眉を潜め口元を結びました。こんな姿を見て、今までどおり接してくれるはずなんてない。仲間内からも醜いと罵られ続けたこの奇形の妖魔を、愛してなんてくれない。この世の終わりのように感じていました。
しかし彼の思いとは裏腹に、アデーレは笑顔をこぼしました。散々泣きはらした顔でですから、それはとても不格好ですが、それでもハーロルトからすれば予想外のことです。
「――思ったとおり、きれいね」
きれい? ボクが? ハーロルトはにわかには信じられませんでした。なにせ彼は臆病なのです。
「きれい?」
「ええ、ほんとうにきれい。あなたはきっと誰よりも、うつくしいひとよ。……ほんとうに醜いのは、わたしたち人の方だもの」
母親も、三人の兄も、人を蔑むことをなんとも思わない醜い存在でした。更に言うのなら、彼女はできるだけ信じ込もうとしていましたが、ただひとり愛してくれていた父親が違う女の人と遠い町で暮らしているのをしっていました。この世界は何もかもが汚れていると、そう思ったのです。きれいだった春色の洋服がいつかどろどろに汚れてしまうように、この世界は汚いのです。
「わたしも、あなたと同じ妖魔ならよかったのに」
ぽつりと、少女が言葉を零しました。それは心の底からの願いでした。同じ妖魔であったなら、ハーロルトと一緒に、いつまでも一緒にいられたのに。この醜い世界から隔離された妖魔という存在になれれば。――その言葉に、ハーロルトはひとつ、提案を持ちかけました。言いたかった、けれど自分の醜さ故に言い出せなかった言葉。けれど今なら。自分をうつくしいと言ってくれた彼女なら、あるいは。
「――ねえ、アデーレ。本当に、ボクと同じ妖魔になりたい?」
ひとつだけ、方法があるよと。それは悪魔の甘美な囁きのようであり、幼い少年の切実な願いのようでした。
「ほんとうに? ハーロルトと同じ、妖魔になれるの? ずっと一緒に、いられるの?」
残された右手だけで、彼女の両手を握ります。意を決して、彼女に話を持ちかけました。
「ボクの、お嫁さんになってください。そうしたら同じ種族になれるから。ボク、アデーレのことが大好きだから」
不安でいっぱいでした。こんな条件、受け入れてもらえるかどうか分からない。だって彼女は今まで人間として生きてきて、こんな醜い妖魔と結婚だなんて、きっと考えたこともない。この思いが一方通行だったら。そんな不安が、ぐるぐると渦巻きます。言葉を聞いたアデーレの瞳に、涙が一粒浮かびました。
「ハーロルト。わたし、ずっと言っていたわよ。あなたのこと、大好きだって。――わたしだって、あなたのこと愛してるのよ」
それだけ言うと、またもや泣き始めてしまったアデーレは彼の胸に顔を押し付けました。涙を通して、暖かさがじんわりと伝わっていきます。
「――ありがとう。ねえ、ずっと一緒にいようね」
まるで幼子が交わす約束のようでした。けれどそれは紛れもない契約で、後に彼女は人間から妖魔へとなったのです。
彼女に殺された母親と三人の兄は、一体どうなったんでしょうか?
妖魔となった人間は、とても不思議なことにその存在が世界から消えてしまうんです。だからその一家は、誰かに惨殺された、ということにされました。でも、それにしては少し裕福な生活をしていたので、妖魔の怒りを勝って殺されたのではないかとも噂されています。
真実はどちらとも取れるし、どちらにもとれないものです。正しい事象というのは難しいものですね。
どっとはらい。